3 逃げた山の女神の行方
由乃は後遺症もなく普段の生活に戻ることができた。
病院にいる時はいろんなことを思い悩んでいたが、仕事をし始めるとそんなことでくよくよする暇もなかった。
「よかったねー。村井さんがいないと、私たちも淋しくて」
「有難うございます。休んだ分取り戻さないと」
「無理しないでいいのよ。仕事は私たちがやるから、適当にやってくれればいいの。管理人さんが村井さんがいるだけでいいっていってくれてるし」
由乃は負けず嫌いで男勝りの性分だった。それは仕事だけでなくあらゆる面で現れるが、普段は周りの人間と強調している。
休日には仕事仲間と昼食を食べに行くことも、お互いの家に行き来することもある。誰かが具合が悪いと聞けば、仕事帰りに見舞いに行ったりする人情家でもあった。
そういう由乃だったから、彼女が倒れたときは毎日のように見舞い客が来た。
その1人が目の前で茶を淹れている瀧子という同僚だった。
「今日は2人だけの快気祝いよ」
瀧子は皆が帰った後そういった。
「それはどうも」
2人は瀧子がたまに行く店に入った。
すべてが個室の懐石料理屋で、小さなせせらぎを石畳で渡り三和土に上がってから部屋に入るようになっていた。雪見障子を開ければ書院造のような部屋で、海霧に煙る小島の掛け軸は五月雨の雰囲気を醸し出している。漆黒のようなテーブルは螺鈿が施してある。それに見劣りしない刺繍をあしらった座椅子と脇息。
「瀧子さん。こんなお店によく来るの?」
由乃は夫と何回かこういう懐石料理屋に行ったことはあるが、別れてからというものは外食といえばファミリーレストランぐらいのものだった。
「たまにですよ。こういうところで贅沢するより、私は温泉のが好きだし。でも、今日は村井さんとゆっくり話したいと思って」
出される料理は見栄えも味もすこぶるつきのものばかりで、枝豆の冷静スープは甘みの中にもさっぱりした味わい。アイナメとキスに時鮭の刺身は口にしたことのない美味さだし、新じゃがとアスパラガスは旬の味わい深いものだ。金目鯛はバターでソテーしてるがかりっとした触感はさっぱりとした口当たりで、単なる塩焼きや煮付けでは味わえないものだった。そういった料理の最後は枇杷のデザートで締めくくられた。
「こんなに美味しく食事したことあったかしら」
夫と別れてからの由乃は働きづめで、食事といえばあり合わせのもので済ますのが常だった。
「ご馳走様。それより、何か話があるんじゃない」
「実はね、私宝くじ当たったのよ。それも、4億円」
由乃は信じられないといった顔で、茶をすする瀧子を見た。
瀧子はなんでもないといった感じで湯飲みを置き、煙草を吸い出した。
「こんなこと話すのは村井さんだけで、夫にもいってないのよ」
「それなのに、どうして私に?」
瀧子はタクシー運転手の夫の浮気癖のことを、しょっちゅう由乃に愚痴をこぼしていた。
由乃の夫は浮気こそしなかったが暴力を振るうことが度々あったし、そういうことで夫に恵まれなかったのは瀧子と共通していた。それで彼女の話を、自分のことのように親身になって聞いてやったことが多々あった。
「あの人は60だっていうのに、娘よりも若い女に入れあげて生活費もまともにくれないからこうしてパートの仕事してるんだけど、もう、これからはゆっくりしたいの。離婚するっていってやったわ。でも、宝くじに当たったことはいってないのね。それで、これは村井さんが買ったってことにしてほしいの。別れるときにごたごたするから」
瀧子は離婚間際に買った宝くじの賞金を夫と折半にしなければならないことを見越し、由乃にそういうのだった。
由乃は瀧子の夫に何回か会ったことがあるが、いかにも女癖の悪そうな感じを持っていたこともあり、彼女の申し出を受け入れることにした。
「いいわ。でも、仕事をやめてどうするの?何もしないで遊んでるっていうのも、辛くない?」
「そこなんだけど、村井さんと温泉めぐりしたいのよ。それでブログなんかやったりすれば、結構楽しくて時間のたつのもあっという間だと思うし」
ブログがどんなものか。パソコンをまったく知らない由乃に、ノートパソコンを見せながら詳しく説明する瀧子だった。それには由乃も目を丸くして驚くばかりだった。
「凄いわねー」
「でしょう。村井さんも何かやればいいのよ。ブログは面白いし、木瓜防止にもなるし」
「私は瀧子さんみたいに器用じゃないし」
瀧子は由乃よりひとまわり下でまだ時代の流れに乗れるが、由乃にしたらパソコンなどは無用の長物だと思っている。見ず知らずの相手とメール交換など、不気味だとさえ感じているのだ。
「とにかく、温泉に付き合ってほしいのよ」
「そういわれても、私はこの仕事を辞める気はないし・・・」
身体を動かさずにじっとしていられる性分ではないし、ましてや他人の金で遊ぶなどということは、由乃にはできかねることだった。それに、春樹の仕事も順調で、以前のように仕事を投げ出す様子もなさそうなので、これといった不満もなかった。
「じゃ、来週は?新緑のいいところがあるのよ。そこは1人じゃ泊まれないし、なんとかお願い」
瀧子の哀願するような誘いにしかたなく付き合うことを約束したが、食事代は割り勘で払う由乃だった。
春樹は仕事を終えるといつものようにジョギングで帰宅する。
贅肉の落ちた身体は引き締まり、手足には血管が浮き上がるほど筋肉もついてきた。それはジョギングだけでなく腹筋や腕立て伏せなどもしているからで、食事も美味く感じるようになっていた。酒をひかえているのが何よりなのだろう。
その筋肉質の身体で潤の華奢な身体を責めるように抱き、彼女を快楽の底に何度も落とした。
そして今は、登山道の片隅で由紀と一緒に奥多摩湖を見下ろしていた。
「これから徐々に勾配を稼ぐようになるの」
ジョギングをやっているせいか、肺活量も上がってきている春樹の動悸は乱れてはいない。景色を眺める余裕もあるし、街で見る時とは違う由紀の姿に惚れ直している。
彼は、汗でうっすらと透けてる由紀の胸を舐めまわすように見ているのだ。
「煙草がうめー」
振り返った由紀に気取られまいと、大袈裟にいった。
「息切れするわよ」
「減っちゃ羅だね」
初めての登山とは思えない軽やかな足取りで七つ石山迄難なくついてくる春樹に、これなら2時には雲取に着くと思う由紀だった。
「あそこが頂上よ」
そういわれた春樹はゆるい登り坂を駆け上がって行った。
その後姿は、獣が獲物をを見つけて走って行くように見えた。
由紀は走りこそしなかったが急ぎ足で春樹の後を追った。
「子供みたいね」
「ちぇっ。浅間は見えんのに北は駄目だな」
「この時期だとヘイズが出る前じゃないと、北アルプスは無理かもね」
「ヘイズって?」
「大気中の塵。それが遠くのものを見にくくさせるの」
「いろんなこと知ってるねー」
由紀は避難小屋でザックの荷物を整理すると外で料理を始めた。
「あなたは何を持ってきたの?」
「レトルトとフリーズドライ。あとはビールとつまみ」
一泊の山行ならそれで十分だろう。
由紀は冷麦をつくり、ビールを飲んでいる春樹に振舞った。
「ぬるいけど、うめー」
「山で水は貴重だから、おうちでつくるようにふんだんに水は使えないからね。でも、これぐらいなら上等よね」
「上等上等上等」
春樹は意味もなく繰り返していう。
遅い昼食を終えても、夜になる迄はかなりの時間があった。
その間春樹は何かと由紀に話しかけるが、彼女は汚い言葉遣いをする彼を鬱陶しく思い、あまり話す気になれなかった。
避難小屋にいる登山者は、場違いな奴が闖入してるといった目で、そんな春樹には冷ややかだった。
「他の人もいるんだし、少しは静かにしたら」
「つめてーなー」
夕食を終えると星を見に小屋を出る者が多い。
由紀はビールを飲んでいる春樹に声をかけることもなく、1人で外に行った。
空には満天の星が輝き、手に取れる近さに見えた。
春樹という男と一緒でなければロマンチックな星空だと感じただろうが、今はそう思えない。何であんな人間と山に来たのかという後悔のが強いからだ。
いきがかり上声をかけて具合の悪い彼を介抱した。癌だというので見舞いにも行った。そして槍ヶ岳に登りたいというから、それならためしに雲取に行ってみようとなった。
電車の中では足を投げ出したり、大声で話しかけてきた。挙句に携帯電話ではげらげら笑いながら会話もしていた。山小屋でも彼のその非常識さは遺憾なく発揮され、抱き合って寝ようと、周りに聞こえるようにいってきた。
そんな春樹とは1秒たりとも一緒にいる気になれない由紀は小屋に戻ると、寝ている彼に気付かれないように荷物をまとめた。皆に一礼をして外に出た。
翌朝起きた春樹は由紀のいないことに気付いた。
由紀のザックがないことを知ると置き去りにされたと分かり、彼女に携帯電話をかけるが圏外で通じなかった。そんな春気は飯を食うどころかビール片手に外に出た。
「これが御来光って奴か」
5月下旬だが山の朝は夏のように早い。
雲海から顔を出した朝日はあっという間に高く昇って行く。それと同時に闇から赤く色づいたかと思うとどんどん変化していき、いいようのないドラマティックなものだった。
「これが山の魅力って奴か」
春樹はビールをぐいっとひと飲みすると、短くなった煙草を足で踏み躙った。
「あんた、山は初めてかい?」
初老の男はもみくちゃになった煙草を拾い上げ、それを春樹に受け取らせながらいった。
「それが」
「山はどうだい?いいかい?」
「まーね」
「そうかい。それはよかった。彼女は逃げても、山は逃げないからな」
春樹はむっとし、受け取った吸殻を再び投げ捨てた。
由紀は雲取山荘で泊まろうかと思ったが、星空の下を飛龍山に向けて歩き通した。日が昇り始めた時は笠取山で、絵に描いたような富士山が見える。その富士山を見ながら広瀬湖畔の民宿に向かった。
顔馴染みの由紀を見た女将は風呂を沸かして彼女を歓待した。
「温くなかった?」
「ちょうどよかったです」
「それはそれは。さ、どうぞ」
「ビール飲みたいんです。そのあと少し寝てもいいですか?」
「ゆっくりしていけばいいわよ」
女将は酒肴に山菜とハムサラダに鱒の塩焼きを出した。
「美味しい。何かもやもやしてたのがいっきに吹っ切れました」
「何があったか知らないけど、人生色々あるわね・・・」
女将は微笑むようにいった。
「そういえば、こないだめずらしく梶山さんが見えたわよ」
一瞬間をおいて、由紀はグラスを傾けた。
「何かいってました?」
「由紀さん来る?って聞いてたわ。連絡してあげたら」
由紀はそれには返事をせず、ビールをもう一本といった。
梶山三郎は由紀の恋人だった。
お互い山が好きでいずれは結婚するはずだったが、今は疎遠になっている。
その梶山とは広瀬ダム奥の東沢渓谷でアイスクライミングをしたり、甲武信岳に登ったりした際、2人はこの民宿を足場にしていたのだ。
「梶山さん。あなたと一緒になりたいって」
女将にそう聞かされても、由紀にはどうすることもできない。彼が目の前にいたなら、思いっきり抱きついたかも知れないのだが・・・。
「人生って、誰かがそばにいないと面白くないわよ」
32歳の由紀はこのさきも山にすべてをかけようとは思ってもいないが、かといって結婚する気もあまりなかった。思い立ったときに好きな山に行ける今の環境のままで、もう少しいたいと思っているのだ。
だがキャバクラやスナックでのアルバイトをするにも年齢的な限界だと気付いていたし、派遣での高収入だっていつまで続くか保証はなかった。
そういう意味で結婚は、いい逃げ場とも思えた。
梶山と別れてから2年間。
最近の由紀はそういうふうに考えていた。
好きな山には登れるが、何か満たされないものが常にあった。それが梶山の存在だということはいうまでもないが、1人でいる身軽さと秤にかけると、結婚には踏み切れないでいた。