2 風越峠
満月に照らされる見返り桜を撮りに行った春樹が車をユータンさせた時、ヘッドライトに浮かぶ物が気になった。懐中電灯を持って近づくと、首に帯を巻いた男が倒れていた。た男が倒れていた。
春樹はすぐに警察を呼んだ。
波流美は大学卒業後一部上場のスーパーに就職したが、売ればいいという企業体質に嫌気を感じ二年で退職した。その後は契約社員として経理などの事務をやっていたが、そこではセクハラなどに遭って永続きしなかった。そこで事務から物流倉庫で在庫チェックなどの派遣に従事するようになった。
そこでは今まで彼女が携わってきた人間とは別の人種が多く、何かと興味を抱くことが多かった。
ニートみたいなのがいれば、逆にてきぱきと仕事をこなす者もいる。同じ職場にいながら自然とそういった人種の棲み分けができるが、波流美は来る者拒まずではないが、誰彼差別なく話していた。
班長としての波流美は仕事上いろんなことを任されていたので、いろんな人間から仕事上の指示を仰がれる立場にあった。自分よりかなり目上、というより父親と同じぐらいの年齢の男から、おどおどしながら仕事のことを聞かれたりするのだ。どんな事情があってこの仕事をしてるか知らないが、そういう年配者はここを終の棲家としてきてることは想像がつく。だから、ミスを咎めたりせず、同じ過ちを繰り返さないように気遣いながら対応していた。
昼食は班ごとにテーブルが決められ、そこで仕出し弁当を一緒に食べることになっていた。弁当をテーブルに運んでくる者がいれば、味噌汁とふりかけを持ってくる者。そして食後にはテーブルを拭いたり後片付けをするなど、食事にしても役割分担は自然と決まっていた。
波流美の班は八人いるが、その一人で梶山が配属された時、彼は皆と同じように仕出し弁当を食べたが、胸焼けを起こしたといって翌日からは弁当持参になった。その弁当の中身は独身男性が作ったとは思えないほど、手の込んだ物が多かった。それに比べ波流美たちの弁当ときたら、毎日目先を変えた惣菜になってはいるが、皆はしかたなしに食べているという有様だった。
梶山は残暑の厳しい或る日、茄子の煮浸しに針生姜を添えたものを皆で食べるように持って行った。すると、波流美はそのお礼に梶山を夕飯に誘った。勿論班の皆にも声をかけたが、彼以外にきたのは仲のいい女性二人だけだった。
この時、梶山は初めて自分のプライベートな面を少しだけ話した。
それによれば、大学を出た後コンビニでも最大手の企業に就職し、そこで食材の仕入れ担当の部署に配属されたらしい。その仕事で彼は食について独自に勉強したからこそ、自分が食べるものにこだわりがあるとそれとなくいっていた。それが彼の作る弁当に現れているので、波流美はなるほどと思った。
波流美がそんな梶山に興味を抱くようになったのは彼の真面目な仕事ぶりの反面、プライベートではかなり面白い人間だということを知った時だった。
何回か飲み会を重ねて年末の忘年会で梶山は皆の余興の後、上座の波流美に取って代わって座りなおした。そこで落語の紺屋高尾を披露したのだ。その席にいたほとんどの者が、落語を聞いたのはそれが初めてだったに違いなく、彼の熱演をどの程度解釈したのか知る由もない。だが、人情物の内容に、皆は泣ける話だね、と冗談まじりにハンカチで目尻を押さえたりした。
紺屋高尾は滑稽な人情話だが、それを梶山は独自に工夫して、聞く者の涙を誘う構成にしていた。皆は梶山という男を不思議そうに見ながらも、彼に拍手を送った。それは自分たちと同じ受け狙いの余興ではなく、正当な芸を披露してくれたことへの評価だった。
額に汗の玉を浮かべた梶山が、波流美に上座に戻るようにいった。
「すいませんでした。突然席を替わってもらって」
「いえいえ。まさか落語をするなんて思いもしてなくて。でも、いい話で感動してます」
「なんでこの話をしたかっていうと、実はこれと同じようなことを自分自身経験したことがあるんですよ」
梶山は仕入れ担当という仕事柄業者から接待を受けることが多かった。
銀座赤坂六本木など名だたるクラブに出入りしていた。そこで、彼は瑤子というホステスに一目惚れしてしまった。その彼女を何とか口説こうとするが、鼻にもかけてくれない。それでも彼は通い詰め、彼女からあることを言わさせしめた。それは、一晩店を貸しきるぐらいになったら来てほしい。そうでなかったら、今夜を最後に来ないでくれと。その金額は三百万で、足りなければ自分の一存でどうにでもするから、それを持ってきたら付き合うとのことだった。
梶山は勤続十年でそれなりの業績を上げ、年収は七百万ほど稼いでいた。だが、仕事に対する不満が募っていたこともあり、瑤子の話を聞いてからはすぱっと退職した。そして、一ヵ月後の土曜に、瑤子と仲のいいホステス五人で店を開けてくれといった。
約束の日、梶山はこれまで自分を接待してくれた業者二人を連れて乗り込んだ。業者の二人は土曜に店を開けてるのかと半信半疑だったが、店長をはじめとした黒服たちの丁重な出迎えを受けた。
「今日は梶山様の貸切です。今まで接待されたお返しだそうで、私たちも心をこめて接待させていただきます」
瑤子に続けて梶山が挨拶した。
「在職中は色々と有難うございました。今日はこれまでのご恩をお返しするために席を設けさせていただきました。存分に楽しんでいただけたらと思います」
そういって梶山は礼を述べた。あとはお気に入りのホステスと膝を乗り出して飲みかわし、踊ったり歌ったりする業者達を見て、梶山は三百万という金を注ぎ込んだ甲斐があったと思った。
お開きの前に梶山はそこでも紺屋高尾を一席打ち、皆からやんやの喝采を受けた。旧家の娘だという瑤子はホステスに似合わず身持ちの固い女だったが、彼の落語に心を揺さぶられた。そして、約束どおり彼に身を任せた。
そんなことを梶山は皆の前で、自慢ぶることなく、一人の女性に対する自分の気持ちを話した。
三万で付き合わないなどと軽口を叩く男が多い中、波流美は梶山のその話に胸が熱くなった。そして、その晩彼に肌を許した。
そんな梶山がなぜ自殺したのかまったく心当たりのない波流美だが、刑事が訪ねてきていろいろと彼のことを聞いている。どんなことでもいいから話してくれというので、おぼろげながらも今までの経緯を話したのだった。
「彼は三ヶ月前に辞めたんですよね」
「はい。年が明けてしばらくは来てたけど、契約の更新をしませんでした。真面目な仕事ぶりの彼なら他へ行っても平気だろうって思ってたんですが、仕事はしてなかったんですか?」
「みたいです。マンションも家賃滞納で退室処分になってます。それに、彼の所持金は三千円しかありません。あなたの話を聞いてると、そんなに金に苦労してるとは思えないし、こちらとしても自殺の動機が分からんのです。ま、一命は取り留めましたが、事件ということでいちおう事務処理もしなきゃならんので、こうして伺ってる訳です。なんせ、本人はまだ意識不明の状態なもんで。もし時間があるなら、あなたに来てほしいところです。そうすれば、彼の意識が快復することがあるかも知れんので」
東京での花見時はとっくに過ぎたが、風越ではまだ山桜が花をつけていた。
その風越の駅に降り立った波流美は喜左衛門に向かった。刑事が訊ねてきてから半月後のことだった。
「お!」
「お、じゃないですよ。いったいどういうことなの?」
梶山は喜左衛門の前掛けをして、店の前の掃除をしているところだった。
「悪かったね。刑事が君のところ行ったんだって」
「それより、ちゃんと説明して下さいよ」
春樹は梶山に今日は休んでいいからといった。
「車つかっていいから、ゆっくり話してくれば」
梶山と一緒に波流美も春樹に頭を下げた。
梶山は見返り桜に波流美を連れて行った。
「今日は曇って山も霞んでるな」
「そんなこといいから、どうして自殺なんかしたんですか?」
「紺屋高尾を嫁にした久蔵は、花魁が染物をするってんで商売も繁盛して目出度し目出度しだった。こっちも瑤子っていう銀座でも有名どころのホステスをものにして絶頂だった。転職した先でもいい条件で迎えてくれたけど、ちょっとトラブってね。それで業界からそっぽを向かれて君のところに行ったんだけど、その間に瑤子との仲もこじれて自棄になってた。でも、君を知ってからはまた一からやり直そうと思ってたんだ」
梶山はそこまでいうと車から降りて煙草を吸い出した。波流美も彼の後を追うように葉桜になった見返り桜のそばに佇んだ。盆地から吹き上げる風がその枝と葉を揺るがせ、ざわざわと音をたてている。
三百万という金で梶山は、瑤子という誇り高きホステスを骨抜きにしたと思っていたが、その実梶山自身が骨抜きにされていたのだ。
それは彼が職を失った時、瑤子から仕事はしなくていいから私の主夫になってくれといわれ、彼は好きな料理をせっせと作った。ひがな、炊事洗濯と手間暇を惜しまず彼女のために何でもやった。
瑤子にしても梶山のそういった奉仕に感謝し、仕事で飲み疲れて帰宅した後でも、男としての彼を満足させていた。だが、それも半年がいいところで、次第にお互いの粗が見えてくれば男の癖に炊事洗濯なんかしないで稼いだらどうだ。女の癖に男に下着まで洗わせるなんていうのは女の風上にも置けない。そんな言い争いが絶えなくなり、梶山は彼女のマンションを引き払った。
元々住んでた自分のマンションも解約していて行く先もなく、しかたなくマンションを借りたものの、好条件での再就職はできず派遣の契約社員になった梶山。家賃と光熱費で十万になるが、収入は手取りで十八万ほどではこの先が思いやられると知ってはいるが、ガス台もないワンルームマンションなど真っ平だった。それで多少通勤には不便だが、郊外の広めのマンションを借りたのだった。そこは緑も多く、そばに住んでる大家さんから野菜を分けてもらったりで、彼にしたら重宝できる住まいだった。通勤電車のラッシュは以前同様だが、帰宅すれば以前とは違って大きめな風呂でゆっくり身体を癒すことができるし、いうことのない住環境だった。さらには波流美という魅力ある女性との付き合いも順調だった。
だが、人材派遣に依頼してる就職希望は相変わらず受け入れてくれるるところがなく、このままでは波流美との結婚を視野に入れた人生設計は絵空ごとに終わってしまいそうだった。それならネットトレーダーにでもなるかと、その道に詳しい食品業界の株を売り買いし始めた。資金はは二百万しかなかったが、それでも一回の売買で多いときは三十万ちかく利鞘を稼ぐことも珍しくなくなり、そうこうしてるうち派遣に行く気はなくなってしまった。だが、得をすれば損もあり、それが次第に焦りとなって博打を打っては元も子もなくなるというのが道理だった。
その挙句がプロバイダ料金の滞納であり、更には悲壮感に襲われての自殺未遂となってしまった。
そんなことを梶山は他人事のように話した。
それを聞いた波流美は梶山が結婚を考えていたことに驚かされた。
何度か彼に抱かれ、このままいたいといわれたことはあった。だが、それは結婚という現実には結びつかない波流美だった。それでも、彼がそう思ってくれてたことは意外といえば意外だが、嬉しく感じた。
「で、死ぬ前に私と会った訳?」
「思い残すことがないようにね」
梶山が首を吊った夜。
風越峠はその名の通り強い風が吹いたらしい。それだからこそ、春樹は星空をバックに、見返り桜の写真を撮りに出かけたといった。だが、その強風は梶山にとっては仇となり、宿から失敬した浴衣の帯紐は揺らぐ枝で耐えられなくなり、彼は桜の木から落下してしまった。それがもう少し遅れていれば、重度の後遺症が残っただろうと医者にいわれた。
「冬は雪も積もるし、人も寄り付かないらしい。春といっても強風や雨で花びらはすぐ散るから、それだけに、この見返り桜の花見を楽しみにしてる人が多いらしい」
梶山は夕暮れの中で波流美を抱き寄せた。
「結婚してくれとはいわない。ただ、ここで抱きたいんだ」
「何馬鹿なこといってるのよ」
「俺はここが好きなんだ。ここで君を抱きたいんだ」
やめてと梶山を突き放すと、彼は意図も簡単に倒れてしまった。仕事もしなくなった彼の体重は落ち、さらには自殺未遂で十日ばかり点滴の入院生活だった。それでは女性の波流美といえども、突かれれば倒れるのも無理はないだろう。
「ごめん。大丈夫?」
「ここでセックスした男は女と同じようにオルガスムスを体感できるらしい。それがどんなものだか分かれば、君をもっと満足させることができるんじゃないかって思った」
梶山はそういいながら倒れたまま煙草を取り出した。
「煙草は身体によくないからやめたほうがいいって」
梶山が何をいわんとしてるか分かっていたが、波流美はそれには耳を貸さず彼の手を取って起こそうとした。
「これっきりでもいい」
そういうと梶山は波流美の手を引き戻し、強引に彼女の身体を抱き寄せた。
このブログは主に自作小説の掲載です。
気楽に読める大人の小説を目指しています。
立ち読み大歓迎です。
たまに山や旅の写真の紹介もします。
ここで連載して完成したものは
一部手直しと校正し、リンクの「夢想国師」に
上梓しています。
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