2 春爛漫か?菜種梅雨か?
春樹の手術が無事に終わった。
懸念されていた肝臓などへの転移もなく、由乃はほっと胸をなでおろした。だが、別れた夫から借り入れた50万のことが、すぐに頭をよぎっていた。
由乃の70ちかい老齢の身では、今やっているビル掃除のパートぐらいしか雇ってもらえるところはないだろう。
そんな思いを顔には出さず、春樹を抱きかかえるように上半身を起こした。
「まだ痛むかい?」
「きりきりする」
「そうだろうね。無理しないでいいから、しばらくは。でも、できるだけ歩いたほうがいいって、先生いってたよ」
「煙草でも吸ってくるか」
ベッドから上体を起こすときは辛いが、立ち上がればなんとか歩けるし、気分もいい春樹だった。
外に出ると青空が大きく広がり、富士山が見えている。
山か・・・。あの女はどうしてるんだろう?
由紀は冬の八ヶ岳の写真を撮るため野辺山にいた。
車のドアを開けるにも寒風が吹きつけ、ようやく外に出れば吹き飛ばされそうになる。それでも限られた時間しかないので、一歩一歩足を運んだ。飯盛山の頂上は遮るものがなく、八ヶ岳連邦をはじめとした山並みが広がっていた。
そんな景色を何枚も撮り終えると、テルモスの熱いシェルパティーを飲んだ。
退院したら俺も山に行くなんていってたけど、手術は無事成功したんだろうか?
春樹から手術の前日に電話があったことを思い出していた。
いきがかり上知り合っただけの男に深入りする気はないが、見舞いに行くといった以上行かなければと思う由紀だった。
野辺山から戻った2日後、由紀はカットフルーツの盛り合わせを手に春樹を見舞った。
「元気そうね」
「お、来てくれたんだ」
「約束したしね」
「なーんだ。俺のこと好きだから来てくれたんじゃないのか」
「しょってるわね」
「あー。体力戻ったらザックもしょうぞ。槍ヶ岳に登ってみたいんだ」
春樹が本気で山に行きたいとは思ってもいなかった由紀は彼に聞き返した。
「最低でも2日かかるのよ。そこら辺にハイキングへ行くのとは違うし、それだけの覚悟あるの?」
「知ってるって。ほら」
春樹は槍ヶ岳のガイドブックを由紀に見せた。
「へー。本気なんだ。じゃ、退院したらとりあえず雲取でも行ってみる?東京都最高峰の山で2000mあるわよ」
「いいね。元はマラソンやってたし、2000mなんて楽勝だって」
そんなところに由乃が入ってきた。
由乃は美人で品のある由紀が、なぜ春樹と知り合ったかを知りたかったが、初対面の彼女に聞くわけにもいかなかった。
「お見舞い有難うございます。こんな息子ですが、宜しくお願いします。春樹。明日退院だって」
「そうか・・・」
由紀と知り合った晩に由乃からせびった残りの金7万円はあるが、それではとうてい入院費用には足りないだろう。
そんな不安が急に現実のものとなって春樹を襲った。
「じゃ、トレーニングしてね。行けるようになったら電話ちょうだい。待ってるわ。じゃ、お邪魔しました。お大事に」
由紀はそういって病室を出た。
「いい感じの女性だね。何やってる人だい?」
「そんなのどうだっていいよ。それより、金どうかなったのか?」
「あんたがそんな心配しなくたっていいの。とにかく元気になったら、今度こそ真面目にやってくれればそれでいいから」
春樹が退院して2ヵ月後は花見時だった。
春樹は元来が真面目だったこともあり、今回の入院で母親の由乃にすっかり苦労をかけたこともあったのか、すぐに仕事をしだした。本業の塗装工として、しっかりしたところに就職したのだ。
「これは少ないけど今月分だ。親父から借りたんだろ。返してくればいい」
「知ってたのかい」
「お袋の実家じゃ俺は鼻つまみもんだし、金を貸してくれるといったら親父しかいないだろ」
「あんたがしっかりこのまま働いてくれれば、実家のほうだって辛くいわないって。じゃ、これはお父さんに返しとくね」
受け取ろうとする由乃の手は皺だらけの上、加齢に伴う染みや斑点があちこちにあった。
「痩せたなぁ」
「え?」
「なんでもない。明日は休みだし、飯は外で食う」
春樹はそういうと外に出て行った。
由乃は今朝春樹の弁当を作った残り物で遅い夕食をとり始めた。
夜桜の花見でにぎわう上野公園から浅草に行った春樹は、チャットで知り合った潤という女子大生と一緒だった。その彼女とは今日が3回目の逢瀬だった。
「あたし、すき焼きがいいな」
春樹にしても昼から何も口に入れてなかったし、肉を食べたいと思っていたところだった。1人前7千円のコースを頼むと霜降りの美味そうな肉が舌の上でとろけた。
潤は美味しいといいながらビールをよく飲む。
「今日は帰らなくていいんだろ?」
「えー?」
「その顔はいいって顔だな」
「そうかな?」
由乃が夕食をとり終え風呂から上がると眩暈で倒れた。
元々血圧が低く、そこにもってきて最近痩せたせいか?
そう思うものの起き上がることもできずに意識を失ってしまった。
何ヶ月ぶりかに抱いた女は春樹がいやになるほど肌を押し付けてくるが、彼はもう精力を使い果たしていた。
春樹を睡魔が襲うが、家に帰ろうと思った。
「今度は温泉でも行ってゆっくりしようか」
「うん。あたしたち肌合うみたいだし」
まだ高校生のような潤が、ときどき春樹をドキッとさせることをいう。
「大学じゃコンパばっかりやってんだろ。男遊びばかりしてないで、少しは勉強もしろよ」
「今は授業ないし。でも、来年は就職だから頑張るよ」
「そっか。じゃ、別れのキスだ」
潤は自ら自分の舌を春樹の舌に絡めた。
そこに携帯電話の着信音が鳴った。
春樹は母からだと知ると、そのままキスを続けていた。
春樹が自宅に戻ると、由乃が浴衣姿で畳に倒れていた。
「どうしたんだよ?」
どこか具合でも悪いのかと気遣いながらも、春樹はぶっきらぼうだった。
「頭痛いから薬買って来てくれないか」
なんとか上体を起こしていう由乃。
「日曜なのに薬局なんか開いてないだろ」
「ドラッグストアやってないのかね」
「まだ8時なのにそんなのやってないって」
「後でいいから勝って来ておくれよ」
春樹は由乃を布団に寝かせ自分の部屋に行くとビールを飲んだ。そして携帯で撮った画像をパソコンに転送した。モニターには潤のあられもない肢体が映り、それをにやけながら見てはビールを飲んだ。そうして時間をつぶし10時前にドラッグストアに行き頭痛薬を買って来た。それを由乃の部屋に持って行ったが彼女からの返事がなかった。
春樹はもしかしたら由乃が脳梗塞になったのかと思い、救急車を呼んだ。
由紀は春樹が真面目にトレーニングしてるか電話をかけると、彼の母親が脳血栓で入院したことを知らされた。幸いにも症状は軽いものの、山どころではないといった感じだった。
春樹に兄弟はなく、母の看病を自分でしなければならないと思うと先が思いやられた。それに就職したばかりで仕事を休むのは気が引けた。
「春樹。お母さんの妹の美咲知ってるだろう」
「知ってるけど、あの叔母さんがなんだよ」
「美咲に電話して、来るようにいっておくれ」
春樹がしぶしぶ美咲に電話で事情を話すと、彼は散々小言をいわれた。だが、そのおかげで看病からは解放されそうだった。
由乃の血栓は薬で徐々に溶かされていったが、退院にはまだ日にちがかかりそうだった。
春樹は1日おきに病室を訪ねるものの、由乃とこれといった話もあまりせずに帰ることが多かった。
「男っていうのは何でああ無愛想なのかしらね。私に挨拶のひとつもしないし」
「済まないね。美咲には迷惑ばかりかけて」
「うーん。姉さんに文句いうつもりなんてないのよ。でも、春樹のああいうのが許せないだけ」
「あれだって、好きでああなった訳じゃないのよ。昔は素直だったの、あんただって知ってるでしょう」
高校進学で春樹の人生は変わったようだ。
その原因は春樹自身が何もいわないので、母親である由乃さえも本当のところは知らない。ただ、別れた夫が勧める進学校に無理やり入れられたのが嫌だったことをそれとなく感じていた。その証拠に半年も待たずに、春樹は自主退学してしまった。それでも夫が高校にも行かないでどうするんだと毎日叱責し、それで彼は翌年違うところに進学したが、それも2年で退学になってしまった。
高卒の夫は学歴コンプレックスが強かったのか、春樹には一流の高校大学に行ってほしかったようだが、息子の春樹はそれを頑として受け付けなかった。
春樹は小さいころから絵心があり、本当は美術系の学校に行きたかった。
それが絵なんかで人生やって行けるかという、にべもない言葉に猛反発した。それでも高校に行かなければ美大に入れないとなれば、しかたなく進学校に入学したが、明けても暮れても偏差値がどうのこうのという教師や同級生に我慢できなかった。そして、同級の女性と問題を起こして退学になってしまった。
春樹が潤の電話で駆けつけた先はイラストの展示会場だった。
「凄いなー」
「サークルの仲間でお金出し合ってさ、1年に1回はやってるんだ」
前衛的なものからアニメ系までいろんな作品があるが、春樹が好きなのはイラストというより実写に近い精密画だった。
「いつになるか分からないけど、俺も描いてみるかな、久しぶりに」
「描きなよ。描いたら見せて」
「潤のヌードでも描くか?」
「やーだ」
2人は展示会場を出てホテルのレストランに行った。
「最近チャットに来てないけど、何やってんの?」
「お袋が入院してて見舞いに行ったりとか、時間ないんだ。今日はたまたま休みになったけど」
「大変じゃない。あたしが夕飯つくりに行こうか?」
「いやー。家に女連れ込んだなんて近所に知れたら、お袋が入院してるっていうのに何考えてるんだっていわれるのが落ちだし」
「そうか・・・。じゃ、この後にいいことしようね」
意味ありげに含み笑いする潤の顔はハーフのように彫が深くて小さい。
胸元が大きく開いたティーシャツを盛り上げているバストはボリュームがあり、誰もが彼女とすれ違いざまに目をやるほどだ。
そんな潤の身体をこれから抱くのかと思うと、それだけで春樹の男心は燃え上がってきた。
ランチタイムが終わるということでウエィトレスがラストオーダーを聞きに来た。
「あたしはもうお腹いっぱい」
「水割り。それとダブルルームひとつね」
「は?」
「ダブルだよ」
「水割りのダブルですね」
「水割りはシングルで、部屋がダブル」
ようやく洒落の分かったウエィトレスは春樹を見ながらいった。
「ここではそのようなご注文はお受けできませんので、フロントへ行っていただけますか。水割りのシングルおひとつでよろしいですね」
「はい。それでいいです」
潤が春樹の代わりにいった。
「やーね。あの人、これからあたしたちがエッチするんだっていう顔で見てたじゃない」
「しないの?」
「してよー」
春樹はベッドで高校時代のことを振り返りながら潤に話している。
「俺、高校の3年間で何やってんだろうって、最近よく思うんだ」
「どうして?」
「友達もできなかったし、2回も中退して馬っ鹿じゃなかろうかってね」
「卒業しなかったの?」
「当然。好きでもないこと勉強してもしょうがないだろ。でも、2回目の高校のときは結構のんびりしてて面白かったな。私立の全寮制だったけど、とんでもない田舎でさ。近くに山や川があったりで、ちょっと可愛い子と授業抜け出して土手で寝転んだりしたりね」
「いけないんだ。不良じゃん」
「不順異性交遊っていうんじゃないか」
「やっちゃったの?その子と」
「やったね。それで退学になったし。親父には勘当だっていわれて参ったよ」
「悪い子だ」
「何いってんだよ。あんな気持ちのいいことして、どこが悪いんだよ。でも、あれで俺の人生変わったなーって、今思うんだ。退学してから絵も描く気になれなくて、仕事もしないでぶらぶらするしきゃなくて。それが元で親は離婚したし」
「そうなんだ・・・」
「お袋にしてみたら慰謝料も貰わないで、俺のこと面倒見ながら働きに出て大変だろうなって思ったよ」
そんなことを潤にいいながら、このところの春樹は由乃の見舞いも疎かにしていた。
「あれから、お袋に迷惑かけっぱなしなんだ。でも、最低でも高卒じゃないとまともな仕事に就けなかった。それなら職人で稼ごうって思ったんだ。でも、でっかい現場で朝早くから朝礼やったりとかって、俺の柄じゃなくてさ。そこらの家の塗り替えとかしたくて、あっちこっちのペンキ屋行ったよ」
最近の一般住宅は新建材が多用され、ペンキ屋の仕事が減っている。さらに悪質な業者が横行し、春樹が行っていたペンキ屋はことごとく暇になっていった。
その結果、春樹は1ヶ月のうち半月は仕事に行かないということが多かった。そういう悪循環で彼は次第に仕事をする気になれなくなり、朝から酒を飲むようになった。それでも、去年は塗装技能士1級の資格を取っていた。
そんなことを、春樹は潤の乳首を玩びながら話した。
「大変なんだねー」
「遊んでないで仕事に行けって、よくいわれたよ」
「お母さんから?」
「いや。家に電話かかってくるけど、お袋がいないから俺が出るだろ。そうすると親戚の叔母さんとか親父とかがね」
「そうか・・・。大人なんだからそんなこと分かりそうなのにね」
「分かってても、親父がいないのに、お前が母親を働かして自分は遊んでてどうすんだって。そういわれりゃ確かだけど・・・。皆、俺が悪いんだって思ってるんだろ。だから、そういう奴らの顔も見たくないし、話もしないな」
「だったら、これからは仕事のあるところに行けばいいじゃん」
「今はなんとかあるけど・・・」
先のことなど考えたくなかった。
今はそれより、目の前にいる潤という女にのめりこんでいたい春樹だった。
外はしとしと雨が降り出しているようだった。
桜も今夜が見納めかもしれない激しい降り方に変わったのは、春樹と潤がホテルを出た直後だった。