7 憧憬の山
春樹は仕事がなくいらついていた。
親方の三村としても春樹に逃げられては困るので、12月の給料は12日分の賃金の他に10万円を餅代として上乗せして払った。
「来月も暇だとは思うけど、そのときは別に払うから辞めるなよ」
「しょうがないな・・・。正月には早いし、クリスマスは山でも行くか」
春樹は今月だけでも3回も山に行っていた。
南アルプスの前衛峰である日向山や燕頭山など、暇さえあれば雪山がどういうものだかを知るために登っていた。
潤もまた由紀と行ったスノーハイキングで自信をつけ、独自に山とは何かということをネットや本で調べ始めていた。春樹を驚かすために、1人で雲取山へ行ったりもしていた。
山へ行ったことのない人間にしてみれば、何が2人をそうまで駆り立てるのか理解できないだろう。
マラソンランナーがランニングハイという現象に陥るというか、そのときの快感がなんともいえないとはよく聞く。
それと同様、何事もやってみなければ分からない魅力があるのだろう。
ちなみに作者の私など、15の春に軽井沢東方の鼻曲り山へ行き、膝まで潜る雪と悪戦苦闘したことがある。碌なウエアーもなく、キルティングのスノーブーツはずぶ濡れで足の指は凍傷になるのではないかという恐怖に晒された。それでも八ヶ岳の勇姿には心踊らされ、いつかは登ってやろうと思った。
それが山に取り憑かれたきっかけだと思っている。
春樹は潤にもいわずクリスマスイブの日に八ヶ岳山麓の原村に来ていた。
雲ひとつない晴天で底抜けの青空は眩しった。目指すは阿弥陀岳南稜だが、無理はしないと決めていた。安達太良山にしてもそうだったが、行けるところまで行けばいい。今の自分が無理をすれば遭難することは分かりきっているからで、その判断は間違っていない。
車から大きなザックを取り出し登山道を30分ほど歩くと、雑木林は白一色の中に埋もれていた。雪は膝近くまであり先人が残した足跡通りに、春樹は歩を進めていく。阿弥陀と赤岳が目の前に迫ったのは立場岳に着いた時だった。
吐息で曇るサングラスをはずせば、ザラメ状の雪が太陽を浴びた物凄い反射で目が開けられないほどだった。
そんなところでインスタントラーメンが煮える間、春樹は由紀のことを考えていた。だが、雲取山で自分を置き去りにした女など糞喰らえだとばかりに、春樹は自分でも分からずに丸めた雪を投げつけた。
立場岳から先は緩やかな尾根だが吹き溜まりでラッセルに苦労する。
雪を膝で固めながら少しずつ進むが、一向に距離がはかどらない。10m前進するのに10分以上かかり、汗だくになった。そのうち体力もなくなり、これが限界だと悟り雪庇を避けたところでテントを張った。
食欲はないが、渇いた喉はビールを欲した。
さっき食べたラーメンはとっくに消化され、冷え切ったビールだけでは胃が痛くなり、アーモンドを齧る。
徐々に西に傾く太陽が雲に隠れ始めると、外気でいっきに汗が冷やされ身体が凍りつきそうになってくる。テントの中で急いで着替えるが、下着を脱ぐと全身に鳥肌が立っていた。雪を溶かした湯を2つのテルモスに入れ、それを湯たんぽ代わりにしてシュラフに包まり、熱燗を飲む。煙草を吸えばテントの中は煙が充満し、なかなか通風孔から出て行かない。寒さには勝てず仕方なく通風孔を閉じた。日はあっという間に傾き、ランタンを灯した。その小さな温もりさえ、今の自分にとっては最大の友のように思えた。空腹のまま寝たのでは凍死するかも知れないと思い、仕方なくテントの外で沸かした湯にレトルトのカレーを放り込み、餓鬼のように貪ると、いっきに睡魔に襲われた。鍋の湯はそのまま蓋をし、それを脱ぎ捨てた下着に包んで両手足を暖めているうちに意識が朦朧となってきた。
そんな春樹の姿を容易に想像できる由乃は、それでも自分の思いをキーボードで打ち込んでいる。
息子の春樹はとてもいい子で、小さいときは私が面倒を見なくても部屋の隅で丸くなってよく寝ていた。愚図ることなど一切ありませんでした。
私はそんな息子が可愛いと思いましたが、なぜか彼が乳房をまさぐるのが嫌いでした。それで、彼とのスキンシップがあまりなかったのです。それが後々に、息子との葛藤になっていくとは想像がつきませんでした。
百獣の王ライオンは子供を谷に突き落とすといいますが、私にはそんな思いはなく、ただ、乳房を触られるのが異常に嫌だっただけなのですが・・・
潤は久しぶりにサークル仲間の男と会い、誘われるままホテルに入った。
春樹によって女の歓びを知らされたものの、このところ彼女自身卒論に追われたり、彼から連絡もあまりないこともあってのことだった。
春樹とは違う愛撫に興奮を覚え、潤は恥らうことなく声をあげた。
そんな自分が嫌になり、彼女は男を跳ね除けて服を着た。
「ごめん。あたし、好きな人がいるの」
カモシカだろうか?キーンという啼き声で目を覚ました春樹は時計を見た。
5時だった。急な尾根を登るには、一刻の猶予もないと思った春樹は荷物を整理した。氷になっている鍋の水を火にかけ、アルファ米の親子丼を食べるとすぐに出発した。
昨夜の寒さとは打って変わり無風状態で暖かい尾根だが、相変わらずラッセルを強いられた。ところどころ岩肌が露出している急峻な尾根道を、慎重にアイゼンを効かせピッケルを併用して歩を進める。パイプ足場の上を歩く要領で、一歩でも踏み外せば大怪我をするといった思いで、徐々に高度を稼ぐ。そういう歩みでなんとか阿弥陀岳に着いたのは昼前だった。ベテランなら3時間ほどの行程だろうが、冬山が初めてで誰から教わることのない春樹にしたら倍以上かかっても当然のことだろう。
眼前に迫る赤岳は神々しさを感じる。
だが、春樹は赤岳を諦めいっきに行者小屋へ降った。
肩で息をする春樹を迎えた小屋番はどこからと聞いた。
「立場から」
「それはお疲れ様。少し混んでるけど」
小屋番の男はそういいながら春樹を案内した。
「ほらー。まだ2時だっていうのに飲んだくれてんじゃないよ。まったく、クリスマスだからって山に登りもしないで飲んでばかりだからな」
春樹は案内されたところでそのまま布団に倒れこんだ。
「南稜つめてきたんだってよ。静かに寝かせてやってよ」
「へー。たいしたもんだね」
お疲れ様。無理した甲斐があったわね。でも、頑張るのもほどほどにしないと、痛い目に遭うわよ。
そんことをいう由紀の顔ではっと目を開ける春樹だった。
夢はすぐに忘れ、食堂に行った。
「どうぞ。今日はクリスマスなんでバイキングらしい」
春樹は眠い目をこすりながら注がれたビールを飲み干した。
「南稜はきつかったでしょう?」
「ですね。2日かかったけど、何とか」
「上等じゃないの。雲取のときより、成長したようだね」
春樹が隣の男を見つめた。
「思い出したかな?」
吸殻を拾い上げ春樹に手渡し、山は逃げないからなといった男だった。
「彼女はどうしてる?」
二の句が接げない春樹はよけい不機嫌になっている。
「それっきりですね」
「長田由紀さんは、確か来年のチョモランマの遠征隊に加わったんじゃないかな。女だけど勇猛果敢さは男に引けをとらない。山なんか行かなくても、彼女ならもっと別の人生があるだろうに・・・。成功することは祈ってるけどね」
由紀がそんな有名な登山家だということに、春樹は衝撃を受けた。
「山っていうのは魔物だね。私みたいな老いぼれが、なけなしの年金をはたいてでも来るんだから」
今朝春樹が仰ぎ見た阿弥陀岳は黄金色に輝いていた。それが刻一刻と色を変えていく。その美しいモルゲンロート現象を、彼はラッセルの合間に見ていた。
誰を頼るわけでもなく、何もかも独学で入った冬山の厳しさに圧倒されるものの、荘厳なその光景を拝めただけでも、彼の無謀な山行は大いに意味があっただろう。
由紀は風吹の北鎌尾根でビバークをしていた。
パートナーは復縁したばかりの梶山三郎で、吹き荒れる雪の中でも心強かった。
潤はネットで冬山の画像を飽きることなく見つめている。
冬山のシーズンは開けたばかりだった。