7 遅すぎた春雷
喜左衛門の風越駅前支店は花見時に何とか間に合い、客がひきもきらず押し寄せた。芳江と加代は井戸屋をやっていた当時では経験したことのない忙しさにてんてこ舞いだが、春樹の的を得た指導でたいした混乱もなく初日の営業を終えた。
「どうだい?」
「疲れるけど、やり甲斐があるわ」
「あとは追々客捌きを覚えていけばいいんじゃないかな。加代ちゃんはうちにいたから慣れてるし」
「本当。あたしなんかよりきびきび動いて助かるわ」
「井戸屋の時は何でもマニュアルとおりやらないといけなかったけど、今はそういうのに縛られないから、私は楽だけど」
「コンビニと違って調理販売がメインだから、とにかく美味いものを作っていこう」
「そうね。春樹さんには当分面倒見てもらわないと」
「それはいいけど、俺だっていつまでもここにいる訳にいかないからな。年寄り連中の食事のこともあるし」
「そうだったわね」
春樹はそういって帰って行った。
「加代ちゃん。少し飲もうか」
「乾杯だね。開店祝いの」
二人が酒を飲んで心地よくなってる頃、春樹もまた自宅のある喜左衛門でビールを飲んでいた。
「どうだった?こっちは」
「スフレが美味しいって、お客さんが喜んでました」
万吉と梶山、それに美紗緒と波流美の四人でやってる喜左衛門は、食堂と飲み客に的を絞った店になっていた。蕎麦懐石や幕の内弁当などをメインにした料理の値は張るが、その〆に波流美が作ったスフレやプリンを出した。それが好評らしい。
「あっちもこっちも同時に新しい店にしたから、お前も大変だったろう。さ、飲めや」
万吉は春樹の労に報いるためにビールを注いだ。
「波流美さんも疲れたんじゃない?」
「いやー。私はそんなには。美紗緒さんのいうとおりやってただけだし」
波流美にも万吉がビールを注いでいる。
「あんたが来たおかげで、この店も上品になった。偉いだろうが、頑張ってやっておくれ。さ、飲んだ飲んだ」
「有難うございます」
梶山は汗で濡れた半纏を脱ぎ、ティーシャツ一枚になっている。
「メニューは少なくなったけど、村井さんがいないとやっぱり大変だ。くたくたですよ」
「梶さんがくる前は、俺もそうだったから分かるけど。ま、しばらくは辛抱して慣れるしかないね」
春樹はそういいながらレジの集計を始めた。
思ったとおり客数はかなり減っているが、売り上げは逆に増えていた。それは駅前店に反映されているので、別に驚くこともなかった。あとは客がどういう反応を示しているのか、それを知ればいいことだと思った。
芳江は井戸屋を始めた時よりさらに気を引き締めるものの、それを顔にださないし加代にも悟らせない。いくら忙しい時でも、これはどうしたらいいのかとパートに聞かれても、決して嫌な顔を見せない。それどころか相手が分かるまで丁寧に教える。するとおかしなもので聞いた相手が、忙しいのに済みませんというのだ。そして、店が終った時か始る時に、分からないことを聞いてくるようになった。
加代はヤキソバやパンなどを焼くほか、春樹から焼鳥や椎茸などの焼き方を仕込まれている。丸々一羽の鶏をはじめから捌いていくのは気持ち悪かったが、慣れてくるとそれほどでもなかった。串に刺すまでの解体もできるようになれば、今度は採算性を考えるようにといわれる。
仕入れ値は五百円前後だが、それを解体して調理して売っていくらの儲けが出るのか?しかし、儲けるだけでなく、買ったお客さんがどれだけ喜んでくれるか?そういうことまで見越して春樹がやってたのかと、いまさらながらに、加代は彼に惚れ直すのだった。そういうことを踏まえながらの一日を終えると、加代はさすがにぐったりした。
「何よ、若いくせに」
「春樹さん。次から次に難しいこというし」
「加代ちゃんを見込んでるからでしょう。さ、これで美味しい物でも食べてね」
加代は芳江の言葉に甘えて一万円を貰った。そして、自宅近くの天麩羅屋に行った。
「おー。珍しい。景気はどうかな」
「井戸屋なんか問題にならないぐらいいいけど、疲れる」
「経営者だもん。それぐらい辛抱しないとな」
「経営は叔母さんだって。私は手伝ってるだけ」
「そうか。ま、どっちでもいいや」
加代は主に勧められるままノレソレの踊り食いをした。
「どうだい?美味いか?」
「口の中でピチピチはねてる」
「アナゴだからピチピチってぇよりは、ヌルヌルだな」
「アナゴなんだ」
「アナコンダじゃないから噛み付いたりしない」
「何をくだらないこといってんだか」
「客の前で夫婦喧嘩はできねぇーし、俺が折れてやるか」
女房に馬鹿にされながらも、主は加代にビールを注いでは駄洒落をいってる。
「小父さんはいつも面白いね」
「そうかい。こう見えても客商売だから、美味いもの出すだけが能じゃないしな。加代ちゃんが俺の話と料理で、少しでも疲れがなくなりゃ、しめたもんだ」
「うん。かりっとした天麩羅はいつも美味しいし、疲れなんか飛んで行ったよ。でも、駄洒落がもう少しうまくなるといいね」
加代の言葉に主は苦笑した。
春樹は加代のために木賃宿と交渉し、素泊まりだけの下宿として一か月五万円と決めた。本当なら梶山と一緒に住むアパートを借りてやりたかったが、二人がそれは困るという。
「家賃は半年分払ってきたから、波流美さんはここにいる決心しなよ」
「それはどうも。有難うございます。ここにはいますよ」
「なら、いいけど。でも、梶さんとは結婚しないの?」
「今は梶山さんも忙しいし、私もここのお仕事面白くて。だいいち、毎日十時間以上一緒にいるんですよ、梶山さんとは。結婚してるのと同じようなもんですよ」
「それは違うかも」
美紗緒が口をはさんだ。
「同じ職場で長い間一緒にいても、仕事が終わって家に戻ってからって、緊張感もなくなってるでしょう。そういう時に初めてお互いの自然な姿が分かると思うんだけど」
「だろうね。俺も結婚したことないから、そのへんは美紗緒さんのがよく知ってる」
「結婚って、お互いにそのままを見せ合うことだと思うんだけど。それで別れるとかっていうふうになることもあるけど、それは大変なことだし。恋愛の場合は好きだ嫌いだって思うだけで、お互いにリスクもないし。結婚って、子供もできれば育児もしなきゃいけない。ちょっとのことで相手を嫌いになったからって離婚なんてしてたら、皆みなしごハッチになっちゃう」
春樹と波流美がくすっと笑った。
「波流美さんが梶山さんのことをどう思ってるか知らないけど、彼と結婚する気があるなら、そこのところを踏み込んで考えたほうがいいと思うよ。こんな場合どうなるんだろうって」
「有難うございます。私自身、まだ結婚したいっていう気があるのかどうかもまだ分からないんです。ただ、梶山さんのことは好きだし、尊敬してるところあるし」
憧れのホステスに入れ込んでその女性と同棲したものの、反りが合わずに別れた。そして派遣では誰よりも一生懸命仕事をこなしてた。だが、こんなことでいいのかと不安に駆られ株で一儲けをたくらんだものの失敗し、自殺未遂を起こした。
喜左衛門で仕事をしてる梶山の過去に、誰がこんなことを想像できるだろうか。それで、波流美は畏敬の念ではないが、彼を素晴らしい人間だと思っているのだ。だが、結婚となれば次元が違うとも思うのだった。
「急ぐこともないけど、二人がいい方向に向かってくれれば、俺はそれでいいと思ってる」
「美紗緒さんも村井さんも心配してくれて、有難く思ってますから」
梶山が休憩から戻ってきた。
「よく寝た。美紗緒さん。まだいたの」
「もう帰るところ。梶山さんは幸せだね」
美紗緒が少し皮肉っぽくいうので、梶山は何のことだと首を傾げるが、彼女はそれじゃといって店から出て行った。
「さて、俺は帳簿の整理でもするか」
「駅前のほうは行かなくていいんですか」
「芳江たちも慣れてきてるし、少しは自分たちでやらしたほうがいいと思うんだ」
加代は焼物を覚えて少し余裕がでてくると、焼き台の前にいても店全体の様子を見ることができた。
二十五坪ほどの店内で、芳江とパートの一人は主に調理をし、もう一人のパートが客席をまわっている。自分を含めた四人がそれぞれの受け持ちでうまく仕事をこなしてるように見えるが、本店の喜左衛門とはどことなく雰囲気が違うように思えた。
何なんだろう?
加代はそれを知りたいと思うが分からない。
「どうしたの?」
「ちょっと感じたことがあったから」
「どんなこと?」
加代は思ってることをいった。
「ね、叔母さん。叔母さんも本店に少し行ってみない。私じゃどうしたらいいか分からないし」
「そんなこと、今できないわよ。休みの時なら行けるけど」
加代がそんなことまで気遣っているのかと思うと、芳江は嬉しく感じた。
「でも、貴重なあなたの意見は有難く受け止めておくわ」
「そうか・・・。ね、今夜天麩羅食べようよ」
「何よ。仕事のことより食い気なの」
「いいからいいから」
この夜、芳江は波流美に引っ張られるようにして天麩羅屋に入った。
「風越の美人さんがおそろいだ」
「いやーね。見え透いたお世辞いって」
「いやいや。お世辞と嘘は嫌いで、本当のことしかいわない主義でさぁ」
「相変わらずね、叔父さんも」
「そろそろ暇なこの店もたたみたいとも思うが、相も変わらず飽きないで商いやってる。おまんま食べていかなきゃならねぇーし」
「本当。お互い様ね。奥さんは?」
「買い物行ったきり帰ってこない」
「だって、九時だっていうのにどこへ買い物に行ってるのよ」
「さー。多分、このまま帰ってこないんじゃないかな」
「ま。暢気なこといって」
「陰気なばあーさんがいなくなって清々してる」
主はそういいながらビールを注ぎ、筍の煮物を出した。
芳江は久しぶりに外で飲むせいか、気分が浮いていた。というより、店の主の顔を見ながら話すだけで、ほっとするようだった。女房が帰ってこないというのが嘘だか本当だか分からないが、それでもこの主は飄々としてるだけでなく、話に翳がない。
「いつも陽気でいいわね。叔父さんは」
「そうかい。ま、同じ一日なら面白いほうがいいに決まってるしな」
芳江が頼んだ刺身が出された。そして、加代が注文した鮎もこんがりと焼きあがっている。
客と話しながらも、この主の手は動いているのだ。そればかりか、他の客への注文もこなしていた。
「加代ちゃんがここに行こうっていう意味が分かったわ」
「やっぱり、うちとは違うでしょう」
「そうね。あなたがそんなことまで考えてるとは思いもしなかった。大人になったね」
「大人よ。もう二十六になるし」
「お店のこと考えてくれるのもいいけど、あなた自身のことも考えてね。春樹さんのことは諦めて、他の人探しなさいよ」
「そうする。でも、村井さんからは仕事って何かっていうこと教えてもらって感謝してる」
「それは私もだわ。春樹さんだけじゃなく、あなたからも私はいいこと教わったし。さ、今夜は飲みたいだけ飲むわよ」
「恐いなぁ」
浩二親子が春樹を訪ねた。
「どうしたんだい?二人揃って」
「店をたたむことにしたんで」
「村井さん。頼むから、俺をもう一回つかってくれ」
春樹は万吉と梶山とでビールを飲んでは馬鹿話をしているところだった。
「じゃ、これで上がりますよ」
「いいじゃないか。話はすぐ済むからいなよ」
村井は梶山を引き留めた。
「そういう話なら断る。美味い酒飲んでるんだ。帰ってくれ」
「わしからも頼む。な、浩二をつかってやってくれ」
「柳下さん。小父さんもいい加減目覚ましたらどうかな」
「分かってる。恥を偲んできてるんだ」
「恥を偲んでこられようが、俺には関係ない」
「頼む。後生だから、な、もう一回この馬鹿息子をつかってやってくれ。でないと、俺たち一家は心中しなきゃならん」
黙って聞いてた万吉が売り上げの金を柳下に差し出した。
「これ持って帰り。それで借金がなくなるかどうか知らんが、しばらくは食い繋げるだろう。あとのことは自分たちでよー考えにゃな。どっちにしろ、この町でコンビニなんてもんはいらんてこった。井戸屋は駅前だから何とかやっていけたがのぅ」
「だが、説明会行ったら絶対儲かるっていってたし」
「馬鹿者。お前までがそんなこと信じてどうする」
一喝された柳下は札束をぎゅっと握り締めた。
「八十ちかいわしでさえ、そんな話にゃ乗らんぞ。世の中にゃな、合う合わないってもんがある。たった一万人足らずのこの町で、しかもおまえんとこは駅からも遠い。誰があんなところまで足を伸ばす。そんなことは子供でも分かる道理ってもんじゃ。な、柳下よ。お前さんもわしから蕎麦打ちを習った人間なら分かるだろうが、商売なんてもんは儲けを考えちゃならんのじゃ。客がどうしたら喜ぶか?それがだいいちなんじゃ。それには手間隙惜しまずやるしかない。それがおまえら親子ときたら目先のことばかり考えよるから、何かいい話がありゃそれに飛びついては失敗する。そういう性根を叩き直さん限り、何やっても駄目じゃろうな。その金はくれてやる。よー、考えてみるがいい」
「何でもやる。だから頼む」
浩二は涙を流しながらいうが、万吉は頑として断る。
「おめぇーも女の尻追っかけてようやっといい女房捕まえたんだ。生まれてくる赤子のためにも、ここは踏ん張るしかねぇな。そのとろくせぇー頭で考えろや」
そうまでいわれては、柳下親子も万吉と春樹を拝み倒すことはできなかった。
二人が帰ると春樹は新しいビールを持ってきた。
「あそこまでいったら分かるかと思うけど、どうかな・・・」
「分からんだろう。分かるぐらいなら、浩二を辞めさせないで、何としてでもここで働かせただろう。それをしなかったあの柳下も馬鹿者じゃ」
「村井さんは、どうして俺のこと助けてくれたんですか?」
春樹は梶山が自殺未遂で意識を戻した時、彼の目に涙が溜まっているのを見た。この時、梶山は春樹に助けてくれといった。何のことだか分からない春樹は、死の淵から蘇った人間を無碍にすることはできなかった。それに、話を聞いてみれば豪快な気性であることが分かり、それならと店でつかう気になった。
それを春樹がいった。
「じゃ、あの親子が仮に心中して失敗したら、俺みたいに助けるんですね」
「それはないな。だいいち、梶さん。あんたは死のうとした時、もうこれで悔いはないといったよね。あんたが行き詰って死んだっていうんだったら、俺はあの時助けなかったかも知れない」
「っていうことは・・・」
「ま、これは俺の人生論だけど、疲れて死ぬ奴なんて、俺は嫌いだ。でも、やりたいことやってこれでいいやって死ぬんだったら、それはそれでいいと思う。あいつら親子はできることもしない。やりたいことやったら、皆裏目に出る。で、挙句の果ては心中しなきゃならないっていう。それが本当なら人にいうか?あいつらは口だけで、死んだりする勇気もないって」
「人間ってぇもんは運命が決まってるのかも知れんのぅ」
「梶さん。波流美さんがいってたけど、ここでのあんたは活き活きしてるって。尊敬してるってさ。俺のことは、誰も尊敬してくれる奴いないのに」
春樹は自嘲気味にいうが、万吉は目を細めて嬉しそうだ。
「なーに。お前さんにだって、遅い春が来るって」
トンネルを抜けるとそれまで青空だったのが打って変わり、雲の多い景色に変わった。それでも、由紀は懐かしい思いを胸に、風越のホームに降りた。
桃の花でピンクに染まった風景が目に入れば、その畑で春樹と戯れたことがいっきに思い出されてくる。ゆっくり歩き改札を出ると、駅前の姿がすっかり変わったことに驚かされ、由紀は立ち止まって煙草を吸い始めた。
薄手のティーシャツからは黒いブラジャーが透け、真っ赤なミニスカートからはすらっと伸びた足がまぶしい女に、駅員は彼女の後姿を見ながらどこかで見た顔だと首をかしげるが思い出せない。
緑色の幟にお焼きと書かれたのが目に留まった由紀がその店に向かえば、喜左衛門駅前店という看板が掲げられていた。もしやと思いながら店内に入るが、心当たりの人間は見当たらなかった。好きな山菜のお焼きを頼もうとしたが、アナゴのもあるので、彼女はそれを注文した。少し甘めの生地にふわっとしたアナゴは薄目の塩味で、それが相まってなんともいえぬいい味わいだった。
「お茶のお代わりはどうですか」
「有難う。ほうじ茶なんて珍しいわね」
「香ばしいってよくいわれます。緑茶もありますよ」
「うーん。これでいいの。喜左衛門て、昔のお店はまだあるの?」
「知ってるんですか?」
「昔はここにいたから」
「そうですか。本店は内装が変わったけど、場所は元のところにありますよ」
「そう。十年ぶりだし、行ってみるわ。ご馳走様」
由紀が外に出ると、加代は彼女に傘を渡そうとした。
「雨が降りそうなんで、つかって下さい」
「いいわ。歩いて五分もかからないし」
だが、由紀の予想よりも雨は早く降り、彼女が本店の喜左衛門に着いた時はずぶ濡れになってしまった。
そんな由紀の姿に、波流美がタオルを持ってきた。
「大丈夫ですか?」
「平気平気。それより、春樹さんいるかしら?」
春樹は二階に干してあった洗濯物を取り込み、下に降りて行った。
「いらっ」
階段の途中で、春樹はそういいかけて立ち止まってしまった。
「えらい雨が降ってきたのぅ」
手洗いから戻った万吉は由紀に気付いた。そして、春樹の唖然とした顔にも。
「どういう風の吹きまわしだ。春雷にしちゃぁ遅すぎらぁ」
雷を伴った春の嵐はあっという間に収まり、暑い日ざしが窓から差し込んできた。
「そんな格好してたら風邪ひく。風呂沸かしてやるから入れや」
万吉は風呂場に行った。
春樹はようやく土間に降り、何事もなかったかのようにどこ行ってたんだと由紀に聞いた。
「ごめん。散歩のつもりが永すぎちゃって」
「ふん。散歩ってのはせいぜい一時間だ。お前は十五年も散歩すんのか?」
波流美は新しいタオルを由紀に渡し、何やら訳ありの彼女と春樹から厨房に戻った。
風越では四月下旬に田植えを始めるが、遅い春雷に農家はおやっと思っていたに違いない。
万吉はにやにやしながら春樹の後ろに立っていた。