美紗緒は春樹に女性を紹介しようとしたが、彼は彼女の好意を素直に受け入れられなかった。
「気持ちは有難いんだけど、俺はまだ一人でいいよ」
「そんなこといわないで、一度ぐらい一緒に飲みに行けばいいのに。あたしと同い年の二十五で、若くてピチピチしてるし」
「いやー。四十でそんな若いのと一緒じゃ話も合わないよ」
そうはいうものの、薄着の女性を目にする夏は否応がなしに春樹の男心は燻ってる。それが、やがては行方知れずになっている由紀の面影に繋がり、風俗に捌け口を求める気持ちを押し留めていた。というより、仕事が終われば話の合う梶山と酒を酌み交し、ほろ酔いで寝込んでしまうのが常だった。
「村井さんも男だし、たまにはパーッと遊んだほうがいいんじゃないですか」
「梶さんまで変なこといわないでくれよな」
梶山が自殺未遂したことは風越の住民なら誰でも知っている。だが、彼を好奇の目で見たのははじめだけで、その動きぶりに皆は一目置くようになっていた。なぜなら、朝晩は自ら風越の駅の掃除を買って出たし、花壇に肥料をやっては水撒きもした。町内の行事にも積極的に参加し、誰もが彼を町民として認めているからだった。
「梶山さんよ。頼んどいた家。あんたなら貸すってよ」
万吉は喜左衛門から程近い廃屋のことをいった。
「どうする?」
「爺ちゃん。あそこは人間が住むところじゃないって」
「それでも本人は改造して住みたいっていうんだから、しょうがなかろうに。家賃は一万でいいそうだ」
「やめたほうがいいって。それより、この横に食堂作るから、そこにしなよ」
調理が得意な梶山の腕を見込み、春樹は食堂の増築を考えていた。
「俺に断りなしで、いつの間にそんなもん考えたんだ」
「断るも何も、梶さんの腕を活かすにはこの調理場じゃ狭いだろう。爺ちゃんだって、厨房が広けれりゃいいのにっていってたじゃないか」
茅葺屋根は火事の時に貰い火を受けやすく、消防署から、屋根だけでもトタンにしろと要請されていた。それを考えると、いつまでも古い合掌造りにこだわっているわけにもいかなかった。
「なぁ、爺ちゃん。土地はあるんだし、いっそのこと新しい店作ろう。それで、ここは爺ちゃんが好きなように使えばいい。蕎麦だけでもいいし。当然新しい店でやるのもいいし。どっちにしろ、ここじゃ狭いって」
「好きなようにしろ!」
万吉は不貞腐れたように言い放ち二階に上がったが、内心では孫がそこまで考えてるなら異存のないところだった。
梶山は春樹がどんな店作りを考えているか聞いて知っていた。
「万吉さんも喜ぶんじゃないかな。あ、それから廃屋のことは村井さんから断るようにいって下さい。何気なくいったら、万吉さん本気にしたみたいなんで。どこか、別に借りますから」
梶山は春樹にそういいながら昼の仕込みにかかった。
波流美は週に一回のわりで梶山から手紙を受け取っていた。
メールという便利なものがあるのに、わざわざ便箋に書いてくるその文字は達筆だった。それは、心情的なことが多く書かれていて、心を打たれる文面だった。
暑い夏ももうすぐ終わりで、野山には赤蜻蛉が飛びまわってる。
畦道にはコスモスが咲き乱れ、小川では魚が跳ねてる。まるで童話の世界のようだけど、そこにいる俺は、一度は捨てた人生を何とかしようと雑草の如く根を生やしてる。
早朝四時から夜の九時までは辛いし時間がほしい。
でも、君がたまに送ってくれるメールを見ると、贅沢いってられないと感じる。君は何人もの人間を相変わらず束ねてるだろうし、いろんな不満や愚痴を聞く立場。逆に上司からは能率アップを迫られて大変だろうに。それに比べたら俺の勤務時間が長いなんていうのは、我儘に過ぎない。
喜左衛門が新しく生まれ変わった。
初めは新築する予定だったけど、内装をすべてやりかえることで見違えた。やはり新築などせず正解だった。このロケーションには古ぼけたのがいちばん似合ってるのだから、これでよしだ。もう少しすれば松茸が出るそうなので、その時には来てほしい。俺の手料理がどんなものだか、披露したいと思うので・・・
眠くなった。じゃ、元気で!
久蔵になり損ねた男より
三日月が西に傾いた晩にて
久蔵とは勿論、大名道具の花魁紺屋高尾を嫁に仕留めた男で、逆玉の輿に乗った男を指してのことだろう。そういうウイットに富んでる梶山の手紙を、波流美は封筒に戻した。
柳下浩二は父と一緒に春樹を訪ねた。
用件はワンダラーのフランチャイズ店を始めることを知らせることだった。
「浩二が心入れ替えてやるっていうんで、俺もそれなら応援しようってことになってね。春樹には世話になりっぱなしで恩を仇で返すような気がしてならないけど、悪く思わないでほしいんだ」
ワンダラーはコンビニをチェーン展開してる外資系の企業だった。
「うちには影響ないし、いいけど。でも、コンビニなんてやったら寝る時間もないんじゃないかな。うちも大変だけど、暇なときは昼寝して適当にできるけど、ワンダラーじゃそうはいかないと思うな」
「それでも浩二がやるっていうし。餓鬼じゃないんだから、お前も自分で挨拶しろ」
「そんな訳だから、宜しく」
浩二はちょこんと頭を垂れながらいった。
「で、どこでやるんだい?」
「そこの空き家になってる青木んところで」
喜左衛門から二百メートルほど離れたところで、それは梶山が改造して住みたいと万吉にいった廃屋のある場所だった。
「どうせなら食堂とかやったほうがいいのに。駅前で捌ききれない客が結構いるし。春から秋だけでも、食っていくだけなら何とかなると思うけどな」
契約を済ませた手前それはできないと浩二がいった。
「じゃ、頑張ってやれよ」
「うん。俺も結婚するし、今までのままじゃ女に逃げられちゃうから」
こんな野郎にどんな女が一緒になるのか見たいもんだが、それはいずれ分かることなので、そうかと儀礼上励ます春樹だった。
紅葉のシーズンは花見時と違い期間が長い。
週末ともなれば、風越駅前は相変わらずの混雑で人が溢れている。その駅前から離れた喜左衛門も同様だが、浩二が開いたワンダラーの店は客の入りが少なかった。喜左衛門が駅から離れても客が来るのはバスの営業所があるからだし、また食堂で出す料理が安くて美味いだけでなく、ちょっとした日用雑貨品もある。さらには客の求めに応じ、地元の情報を極め細やかに提供する融通があった。
ワンダラーのフランチャイズ店を運営するにあたり浩二はそれなりに勉強したし、開店後も本部の指示を仰ぎながら何とか客数を増やそうとしている。しかし、駅からは遠くバスの停留所からも離れてるとなれば、これは明らかに不利だった。駅前には地方を中心に展開してる井戸屋というコンビニもあれば、昔ながらの商店が軒を連ねているのだ。そして、二百メートルほど離れたところには喜左衛門という何でも屋がある。
そういった立地条件でワンダラーがなぜ出店を許可したかといえば、それは地方での出店としてのアンテナだったからだ。浩二が儲かろうが損をしようがそんなことはどうでもよく、今後の試金石としての様子を探りたかったのだ。
そういったことを知ってか知らずか、浩二は朝から晩までストレスを抱えながら店に出張っていたが、その奮闘ぶりも薄れたようだった。
「なぁ。俺のやり方おかしいか?」
「おかしくないって。でも、昼間っからお酒なんか飲まないでよ。お店に出られないでしょ」
「店?客なんか一日に五十人も来ないじゃないか。そんなもん、親父に任せときゃいい」
仕入れのマークシートの発注表も身重の新妻に任せっきりで、浩二は飲んだくれている。
美紗緒はいつもなら三時で喜左衛門を後にするが、今日は昼から宴会の客が居続け、その調理に追われ帰ることができなかった。春樹はいいから帰れというが、忙しいのを尻目に一人だけ帰る気になれない。
「ボーナスたっぷりはずんでもらうし、いるわよ」
「そうか。悪いね」
春樹は早く美穂がこないかと願っているが、彼女がくるまでにはまだ二時間ちかくあった。それでもバスが着く度に客が入ってきては、喜左衛門は益々忙しくなった。
万吉はなくなりそうな蕎麦を心配し新たに打ち始めていたし、梶山は魚を次から次へと捌き焼き物は春樹に、刺身は皿に盛り付けた。他の調理もこなし、彼の額といわず首筋には汗が光っていた。春樹は団扇をばたばた仰ぎながら焼き物の火加減を調整するのに余念がなかった。美紗緒はそんな男たちが丹念に仕上げた料理を客席に運んだ。それは七時まで続いた。
万吉はさすがに疲れたのか、予定の蕎麦をすべて売り切ると、食事もとらずに二階に上がってしまった。
「今日はいったいどうなってんだ。ウイークデーだっていうのに客が途切れずに来るなんておかしいな」
団体客と観光客が帰り、馴染みの常連だけになってようやく春樹が煙草に火をつけながらいった。
「松茸のシーズンだからでしょう」
「それにしたって、昼前からずーっと忙しいなんて初めてだ。日曜だってこんなことないのに」
「駅前はそんなにお客さん入ってなかったよ」
美穂がテーブルを片付けながらいった。
美紗緒は美穂が下げた食器を荒い残飯を整理した。その残飯は養豚業者が取りに来るのできちんと容器に保管した。そして、帰ると春樹に告げた。
「せっかくこの時間までいたんだし、もう少し頑張って店仕舞いしたら、皆で何か美味いもんでも食べに行こう。旦那に電話してみれば」
「せっかくだけど、もう眠いし、また今度誘って」
美穂と一緒に美紗緒は店を出た。
客もいなくなり、九時の列車が到着しても来客の気配がないので、春樹は店を閉めた。そして梶山とストーブの前でビールを飲み始めた。
「いやー。今日はお疲れさん」
「村井さんこそ、疲れたでしょう」
「二十年もこんなことやっててなれてるし。どう?たまには外へ飲みに行こうか」
「そうですか。それなら行きたいところがあるんですが、そこでもいいですか?」
「何だい。いつの間に情報仕入れてんだか。いいよ。どこでも」
春樹は久しぶりに外で飲む酒でいい気分になった。
「同じ酒でも、家で飲むのと外で飲むのはどうして違うのかな。不思議だよ」
「それはありますね。酒だけじゃなく、たとえばおでんとかお好み焼き。あれは家でつくれば値段を気にしなくていいから高級な食材をつかって作ったとしても、やっぱり外で食べるほうが美味しい。多分、ケチってそんなに食べないからだと思うんだけど、これは自分の貧乏性だからかな」
「いや。それは間違ってないな。でんと置かれた大鍋に食べたい物があれもこれも入ってるおでんは、食べればすぐに腹も膨れるし、やっぱり店で酒の合間につまむっていうのが王道なんだよ。だからこの串揚げだって美味いんだ。いや、味は確かだし、酒のつまみどうこうじゃなくてね」
梶山は饒舌な春樹に冷酒を注いだ。
「いいって。手酌でやろう。それより、ちょっと聞いていいかな?」
「何ですか?」
「自殺した原因。本当のところを知りたいんだ」
飲みかけていたグラスを梶山が置いた。
「村井さんはこのまま死んでもいいやって思ったこと、ないですか?」
「ないな。俺は事故で両親と妹をいっきに亡くしてるし。だから、自分で死ぬなんて考えられない」
「そうでしたか。俺は、死にたいって真剣に考えたことあります」
「へー。それはまたどうしてだい?」
人生80年とはいうが、梶山にしたらそんなに長生きしたいと思ったことはない。毎日が営業で身も心もくたくたで、好きな女性と口も聞きたくないほど疲労困憊しきっていた当時。唯一のリラクゼーションは旅行だった。国内だけでなく海外にもよく出かけた。そこで見るもの食べるものすべてが新鮮だったし、連れて行く女性との交わりが彼の活力源だったといっても過言ではないだろう。だが、それも回を重ねる毎に興味が薄れてくるのも事実だった。それで、女性をとっかえひっかえしたが、それでも彼の心が癒されることはなかった。
そんな時に心を奪われた瑤子というホステス。それも束の間だった。だが、その直後に知り合った波流美は絶えず心に居続け、仕事もなく意気消沈してた彼の心を躍らせた。その彼女を抱いて死ぬなら、それも人生だと自棄になっていたのかも知れないが、それが本望だった。
梶山はありのままを春樹にいった。
「つまり、好きな女性を抱いた後で死にたかったってことかな」
「いや。本当は彼女と一緒に心中したかったっていうのが本音です」
「恐ろしいこと考える奴だな」
「そういわれても仕方ないけど。でも、俺には彼女を道連れにするだけの魅力はなかった。あれば、彼女だって道連れになってくれただろうし」
「なるほどな。そういう見方もできるな」
「俺。村井さんには感謝してるんです。あの時村井さんが見つけてくれなきゃ、本当に死んでたかもしれない。今思えば、死ななくてよかったって思ってるし」
「それなら、彼女と一日も早く一緒になることだな」
「それはどうなるか分かりません。でも、今は彼女がいなくても生きていたいんです。小鳥の啼き声で目が覚める。店に行けば春樹さんは一生懸命仕込してる。万吉さんも老体に鞭打って蕎麦を打つ。馴染み客のおはようっていう一声で、今日も頑張るぞって気になるんです」
満員電車の通勤だけでも疲れるサラリーマン。仕事先での人間関係。そういった煩わしいものが、喜左衛門にはいっさいなかった。そして、仕事の後こうして春樹と飲む酒は美味いし、好きな自然がそこかしこにあってそれだけで幸せだと感じられた。
「結婚したいのは間違いないけど、でも、今のこの時を大事にしたいって感じるんです。だから、彼女と一緒になれなくても、絶対に自殺なんてしませんよ」
「そうか。俺なんてこんなところから逃げ出して都会に行きたいってよく思ったけど、この年になるとここにいてよかったって。最近よく思うんだ。齢かな」
春樹には梶山のように思い悩んで死のうなどと考える時間がなかった。考えるとすればこの次は何をすべきか?そのことだけだった。それはすなわち仕事のことであり、団扇で煽いだ炭の火力が食材に行き届いてるかとか、そろそろあの客が来る時間だから次の仕込みにかかろうかなど。絶えず仕事中心の生活で、悩みらしきものもなかった。
それに比べ、梶山にしてもそうだが都会での生活者は、通勤のラッシュだけでも疲れるだろうし、職場に着いた時にはへとへとになってしまうのではないかと春樹は思う。夜遅くまで仕事仲間や友人たちと飲んでては一人者などまともな食事などできないだろう。朝にしたってぎりぎりまで寝てるに違いない。そうなればコンビニや駅の立ち食いそばを食べるぐらいだろう。
そういう彼らに比べたら、これといった悩みのない春樹は幸せだと思う。
と同時に、喜左衛門で朝飯を食べる客たちはどんな一日を過ごしてるのか?
ふっとそんなことが気になる春樹だった。
そこへ、美紗緒夫婦がやってきた。
「何だ。寝るんじゃなかったの?」
「そういったんだけど、旦那がお茶漬けなんかやだっていうから」
「喜左衛門さん。あんまり美紗緒の子とこき使わないで下さいよ」
「悪い悪い。今日は特別忙しくって」
美紗緒とその亭主の義男が加わって四人が乾杯しなおした。
「この人。東京に比べたらここは仕事場も近いからいいやっていうくせに、何にもやってくれないんだから」
義男は美紗緒と結婚するにあたり、婿養子に入った。元々教師だった彼は遠海の町立小学校に転勤し、職住接近の生活を送っている。
「東京じゃ小生意気な餓鬼相手に疲れたけど、ここの子供は皆素直でいい」
「そんなこといってるんじゃないの。少しはあんたも家事してよ。いつも六時前には帰ってきてるんだから」
「美紗緒は4時に帰ってるんだろう。それなのに俺に料理作らせるってのはおかしいって」
「婿養子のくせに生意気なんだから」
男三人が苦笑した。
「ここの子供たちって競争するってこと知らないんですね。皆仲良しなのはいいんだけど、ライバル心とか持たないと、世間の荒波に飲まれちゃうんじゃないかって、心配だよ」
遠海町は人口も増え都会の文化も流入し、昔とは比べものにならないほど便利になっていた。ディスカウントショップやスーパーもあれば衣料専門の大型店も都会から進出している。それどころかDVDのレンタル店まであり、都会となんら変わりのない生活を送れるのだ。それでいて、町内で仕事をする人間なら通勤時間はかからない。何しろ道路事情がいいので渋滞などほとんどないからだ。それで、義男は東京にいる当時に比べたら時間的余裕を得たし、ストレスから解放された生活を送っているのだ。
「子供の心配もいいけど、最近のあんたはのんびりしすぎててさ、このままじゃ早く惚けそうだよ」
「そんなに苛めるなって。今度の休みはなんか作ってやるから」
「それでこそ婿養子よね」
喜左衛門にいる美紗緒はどんなに顔見知りの客でも、こんなぞんざいな口のききかたをしない。気心の知れた春樹や梶山だからこそ、砕けた話しかたをしてるのだった。
「義男さんはここに来てどれぐらいですか?」
「もう三年になりますね。来年は三十だし、何とか家を建てたいって思ってるけど、教員じゃそんなにいい給料じゃないからどうなるか」
「でも、教師だと転任があるし、いつどこに飛ばされるか分からないでしょう」
「この町から通えないところだったら、辞めますよ。春は桜。夏には桃の甘い香り。秋は葡萄。冬は柿。そういった花や果物だけじゃなく、四季を感じさせてくれる生活って、都会じゃなかなかできないし。僕はこの町が好きだな。満員電車に乗って自意識過剰な女性に痴漢扱いされることもないし、コンビニで侘しい朝飯なんて真っ平ですよ」
春樹は自分で気付いていない平穏な日常に感謝するべきだと思うのだった。
遠海は小さな町で、その中の風越は高台にあって冬場は厳しい環境になるが、それでも人々は何の不満を漏らすことなく朗々と生活を送ってる。
梶山やこの義男ら部外者が好きだというように、春樹も同様に遠海町が好きだった。ただ、彼らのように都会と比較する術がない分、その度合いが弱く感じるだけなのだろう。だから、この町に感謝するという気分を感じないに過ぎない。
桑田眞澄がついにユニフォームを脱ぐ決断をした。
彼はPL学園から大学進学を目指すはずだったが、突如巨人に入団し、盟友の清原とギクシャクしたときもあったらしい。
それも昔のことで、清原自身もやがては西武から巨人に移籍してそのシコリモなくなったのだろう。
だが、桑田自身は登板の機会に恵まれず、去年には球団の方針と合わずにメジャーを目指した。
そこでは現役投手というよりも、彼の人柄を買うチームメイトや首脳陣からの評判がよかった。
それでもプロである以上結果を残さなければならない。それが、開幕直前に怪我をしたせいか、思い通りの成績を上げることができずにわずか1年で退団した。
それにもめげず、今年は他の球団でメジャーを目指したが、昇格を望めなかった。
その球団は、引退セレモニーを兼ねて先発する機会を与えるがどうかと彼に訊ねたそうだ。
桑田いわく、勝負は勝つもの。それに私情は要らないと断ったそうだ。
さすが、侍魂を持った日本男児ではないか!
彼にしてみたらするべきことはすべてやった。
その結果に悔いはなしといったことだろう。
そんな彼にお疲れ様といいたい。
プロの世界で何にしても、一つのことを極めていくのは大変なことだと思う。
頂点に上り詰め横綱になり役員から理事へ。
その相撲界は去年リンチにも等しいしごきで、少年の命を奪った挙句、関係者はその事件をひた隠しにしてきた。
また仮病だということは誰の目にも明らかな朝青龍をまともに処分できない、親方やその相撲界の役員や理事たち。
彼らこそが潔く引退するべきだと思うのは私だけだろうか?
スポーツ馬鹿とはよく言ったもので、その道しか分からず、世間の常識から逸脱した者が多いのだろう。
桑田眞澄はそういう者とは一線を画したクレバーな人間であることは間違いない。
そんな彼の現役引退に大きな拍手を送りたい。
桑田眞澄の関連ブログ
2 風越峠
満月に照らされる見返り桜を撮りに行った春樹が車をユータンさせた時、ヘッドライトに浮かぶ物が気になった。懐中電灯を持って近づくと、首に帯を巻いた男が倒れていた。た男が倒れていた。
春樹はすぐに警察を呼んだ。
波流美は大学卒業後一部上場のスーパーに就職したが、売ればいいという企業体質に嫌気を感じ二年で退職した。その後は契約社員として経理などの事務をやっていたが、そこではセクハラなどに遭って永続きしなかった。そこで事務から物流倉庫で在庫チェックなどの派遣に従事するようになった。
そこでは今まで彼女が携わってきた人間とは別の人種が多く、何かと興味を抱くことが多かった。
ニートみたいなのがいれば、逆にてきぱきと仕事をこなす者もいる。同じ職場にいながら自然とそういった人種の棲み分けができるが、波流美は来る者拒まずではないが、誰彼差別なく話していた。
班長としての波流美は仕事上いろんなことを任されていたので、いろんな人間から仕事上の指示を仰がれる立場にあった。自分よりかなり目上、というより父親と同じぐらいの年齢の男から、おどおどしながら仕事のことを聞かれたりするのだ。どんな事情があってこの仕事をしてるか知らないが、そういう年配者はここを終の棲家としてきてることは想像がつく。だから、ミスを咎めたりせず、同じ過ちを繰り返さないように気遣いながら対応していた。
昼食は班ごとにテーブルが決められ、そこで仕出し弁当を一緒に食べることになっていた。弁当をテーブルに運んでくる者がいれば、味噌汁とふりかけを持ってくる者。そして食後にはテーブルを拭いたり後片付けをするなど、食事にしても役割分担は自然と決まっていた。
波流美の班は八人いるが、その一人で梶山が配属された時、彼は皆と同じように仕出し弁当を食べたが、胸焼けを起こしたといって翌日からは弁当持参になった。その弁当の中身は独身男性が作ったとは思えないほど、手の込んだ物が多かった。それに比べ波流美たちの弁当ときたら、毎日目先を変えた惣菜になってはいるが、皆はしかたなしに食べているという有様だった。
梶山は残暑の厳しい或る日、茄子の煮浸しに針生姜を添えたものを皆で食べるように持って行った。すると、波流美はそのお礼に梶山を夕飯に誘った。勿論班の皆にも声をかけたが、彼以外にきたのは仲のいい女性二人だけだった。
この時、梶山は初めて自分のプライベートな面を少しだけ話した。
それによれば、大学を出た後コンビニでも最大手の企業に就職し、そこで食材の仕入れ担当の部署に配属されたらしい。その仕事で彼は食について独自に勉強したからこそ、自分が食べるものにこだわりがあるとそれとなくいっていた。それが彼の作る弁当に現れているので、波流美はなるほどと思った。
波流美がそんな梶山に興味を抱くようになったのは彼の真面目な仕事ぶりの反面、プライベートではかなり面白い人間だということを知った時だった。
何回か飲み会を重ねて年末の忘年会で梶山は皆の余興の後、上座の波流美に取って代わって座りなおした。そこで落語の紺屋高尾を披露したのだ。その席にいたほとんどの者が、落語を聞いたのはそれが初めてだったに違いなく、彼の熱演をどの程度解釈したのか知る由もない。だが、人情物の内容に、皆は泣ける話だね、と冗談まじりにハンカチで目尻を押さえたりした。
紺屋高尾は滑稽な人情話だが、それを梶山は独自に工夫して、聞く者の涙を誘う構成にしていた。皆は梶山という男を不思議そうに見ながらも、彼に拍手を送った。それは自分たちと同じ受け狙いの余興ではなく、正当な芸を披露してくれたことへの評価だった。
額に汗の玉を浮かべた梶山が、波流美に上座に戻るようにいった。
「すいませんでした。突然席を替わってもらって」
「いえいえ。まさか落語をするなんて思いもしてなくて。でも、いい話で感動してます」
「なんでこの話をしたかっていうと、実はこれと同じようなことを自分自身経験したことがあるんですよ」
梶山は仕入れ担当という仕事柄業者から接待を受けることが多かった。
銀座赤坂六本木など名だたるクラブに出入りしていた。そこで、彼は瑤子というホステスに一目惚れしてしまった。その彼女を何とか口説こうとするが、鼻にもかけてくれない。それでも彼は通い詰め、彼女からあることを言わさせしめた。それは、一晩店を貸しきるぐらいになったら来てほしい。そうでなかったら、今夜を最後に来ないでくれと。その金額は三百万で、足りなければ自分の一存でどうにでもするから、それを持ってきたら付き合うとのことだった。
梶山は勤続十年でそれなりの業績を上げ、年収は七百万ほど稼いでいた。だが、仕事に対する不満が募っていたこともあり、瑤子の話を聞いてからはすぱっと退職した。そして、一ヵ月後の土曜に、瑤子と仲のいいホステス五人で店を開けてくれといった。
約束の日、梶山はこれまで自分を接待してくれた業者二人を連れて乗り込んだ。業者の二人は土曜に店を開けてるのかと半信半疑だったが、店長をはじめとした黒服たちの丁重な出迎えを受けた。
「今日は梶山様の貸切です。今まで接待されたお返しだそうで、私たちも心をこめて接待させていただきます」
瑤子に続けて梶山が挨拶した。
「在職中は色々と有難うございました。今日はこれまでのご恩をお返しするために席を設けさせていただきました。存分に楽しんでいただけたらと思います」
そういって梶山は礼を述べた。あとはお気に入りのホステスと膝を乗り出して飲みかわし、踊ったり歌ったりする業者達を見て、梶山は三百万という金を注ぎ込んだ甲斐があったと思った。
お開きの前に梶山はそこでも紺屋高尾を一席打ち、皆からやんやの喝采を受けた。旧家の娘だという瑤子はホステスに似合わず身持ちの固い女だったが、彼の落語に心を揺さぶられた。そして、約束どおり彼に身を任せた。
そんなことを梶山は皆の前で、自慢ぶることなく、一人の女性に対する自分の気持ちを話した。
三万で付き合わないなどと軽口を叩く男が多い中、波流美は梶山のその話に胸が熱くなった。そして、その晩彼に肌を許した。
そんな梶山がなぜ自殺したのかまったく心当たりのない波流美だが、刑事が訪ねてきていろいろと彼のことを聞いている。どんなことでもいいから話してくれというので、おぼろげながらも今までの経緯を話したのだった。
「彼は三ヶ月前に辞めたんですよね」
「はい。年が明けてしばらくは来てたけど、契約の更新をしませんでした。真面目な仕事ぶりの彼なら他へ行っても平気だろうって思ってたんですが、仕事はしてなかったんですか?」
「みたいです。マンションも家賃滞納で退室処分になってます。それに、彼の所持金は三千円しかありません。あなたの話を聞いてると、そんなに金に苦労してるとは思えないし、こちらとしても自殺の動機が分からんのです。ま、一命は取り留めましたが、事件ということでいちおう事務処理もしなきゃならんので、こうして伺ってる訳です。なんせ、本人はまだ意識不明の状態なもんで。もし時間があるなら、あなたに来てほしいところです。そうすれば、彼の意識が快復することがあるかも知れんので」
東京での花見時はとっくに過ぎたが、風越ではまだ山桜が花をつけていた。
その風越の駅に降り立った波流美は喜左衛門に向かった。刑事が訊ねてきてから半月後のことだった。
「お!」
「お、じゃないですよ。いったいどういうことなの?」
梶山は喜左衛門の前掛けをして、店の前の掃除をしているところだった。
「悪かったね。刑事が君のところ行ったんだって」
「それより、ちゃんと説明して下さいよ」
春樹は梶山に今日は休んでいいからといった。
「車つかっていいから、ゆっくり話してくれば」
梶山と一緒に波流美も春樹に頭を下げた。
梶山は見返り桜に波流美を連れて行った。
「今日は曇って山も霞んでるな」
「そんなこといいから、どうして自殺なんかしたんですか?」
「紺屋高尾を嫁にした久蔵は、花魁が染物をするってんで商売も繁盛して目出度し目出度しだった。こっちも瑤子っていう銀座でも有名どころのホステスをものにして絶頂だった。転職した先でもいい条件で迎えてくれたけど、ちょっとトラブってね。それで業界からそっぽを向かれて君のところに行ったんだけど、その間に瑤子との仲もこじれて自棄になってた。でも、君を知ってからはまた一からやり直そうと思ってたんだ」
梶山はそこまでいうと車から降りて煙草を吸い出した。波流美も彼の後を追うように葉桜になった見返り桜のそばに佇んだ。盆地から吹き上げる風がその枝と葉を揺るがせ、ざわざわと音をたてている。
三百万という金で梶山は、瑤子という誇り高きホステスを骨抜きにしたと思っていたが、その実梶山自身が骨抜きにされていたのだ。
それは彼が職を失った時、瑤子から仕事はしなくていいから私の主夫になってくれといわれ、彼は好きな料理をせっせと作った。ひがな、炊事洗濯と手間暇を惜しまず彼女のために何でもやった。
瑤子にしても梶山のそういった奉仕に感謝し、仕事で飲み疲れて帰宅した後でも、男としての彼を満足させていた。だが、それも半年がいいところで、次第にお互いの粗が見えてくれば男の癖に炊事洗濯なんかしないで稼いだらどうだ。女の癖に男に下着まで洗わせるなんていうのは女の風上にも置けない。そんな言い争いが絶えなくなり、梶山は彼女のマンションを引き払った。
元々住んでた自分のマンションも解約していて行く先もなく、しかたなくマンションを借りたものの、好条件での再就職はできず派遣の契約社員になった梶山。家賃と光熱費で十万になるが、収入は手取りで十八万ほどではこの先が思いやられると知ってはいるが、ガス台もないワンルームマンションなど真っ平だった。それで多少通勤には不便だが、郊外の広めのマンションを借りたのだった。そこは緑も多く、そばに住んでる大家さんから野菜を分けてもらったりで、彼にしたら重宝できる住まいだった。通勤電車のラッシュは以前同様だが、帰宅すれば以前とは違って大きめな風呂でゆっくり身体を癒すことができるし、いうことのない住環境だった。さらには波流美という魅力ある女性との付き合いも順調だった。
だが、人材派遣に依頼してる就職希望は相変わらず受け入れてくれるるところがなく、このままでは波流美との結婚を視野に入れた人生設計は絵空ごとに終わってしまいそうだった。それならネットトレーダーにでもなるかと、その道に詳しい食品業界の株を売り買いし始めた。資金はは二百万しかなかったが、それでも一回の売買で多いときは三十万ちかく利鞘を稼ぐことも珍しくなくなり、そうこうしてるうち派遣に行く気はなくなってしまった。だが、得をすれば損もあり、それが次第に焦りとなって博打を打っては元も子もなくなるというのが道理だった。
その挙句がプロバイダ料金の滞納であり、更には悲壮感に襲われての自殺未遂となってしまった。
そんなことを梶山は他人事のように話した。
それを聞いた波流美は梶山が結婚を考えていたことに驚かされた。
何度か彼に抱かれ、このままいたいといわれたことはあった。だが、それは結婚という現実には結びつかない波流美だった。それでも、彼がそう思ってくれてたことは意外といえば意外だが、嬉しく感じた。
「で、死ぬ前に私と会った訳?」
「思い残すことがないようにね」
梶山が首を吊った夜。
風越峠はその名の通り強い風が吹いたらしい。それだからこそ、春樹は星空をバックに、見返り桜の写真を撮りに出かけたといった。だが、その強風は梶山にとっては仇となり、宿から失敬した浴衣の帯紐は揺らぐ枝で耐えられなくなり、彼は桜の木から落下してしまった。それがもう少し遅れていれば、重度の後遺症が残っただろうと医者にいわれた。
「冬は雪も積もるし、人も寄り付かないらしい。春といっても強風や雨で花びらはすぐ散るから、それだけに、この見返り桜の花見を楽しみにしてる人が多いらしい」
梶山は夕暮れの中で波流美を抱き寄せた。
「結婚してくれとはいわない。ただ、ここで抱きたいんだ」
「何馬鹿なこといってるのよ」
「俺はここが好きなんだ。ここで君を抱きたいんだ」
やめてと梶山を突き放すと、彼は意図も簡単に倒れてしまった。仕事もしなくなった彼の体重は落ち、さらには自殺未遂で十日ばかり点滴の入院生活だった。それでは女性の波流美といえども、突かれれば倒れるのも無理はないだろう。
「ごめん。大丈夫?」
「ここでセックスした男は女と同じようにオルガスムスを体感できるらしい。それがどんなものだか分かれば、君をもっと満足させることができるんじゃないかって思った」
梶山はそういいながら倒れたまま煙草を取り出した。
「煙草は身体によくないからやめたほうがいいって」
梶山が何をいわんとしてるか分かっていたが、波流美はそれには耳を貸さず彼の手を取って起こそうとした。
「これっきりでもいい」
そういうと梶山は波流美の手を引き戻し、強引に彼女の身体を抱き寄せた。








