9 卒業
仕事が忙しい春樹と会う機会が少ない潤は、1人でもハイキングに出かけている。たいがいは陽だまりの中を歩き、夕方は温泉に入って帰ってくるというものだった。だが、今は3日の予定で雁坂峠から甲武信ヶ岳を目指そうとしている。
2月だというのに暖かな陽気は歩くたびに膝下まで潜るような雪道だが、潤の歩みは順調で雁峠を10時に越えた。雁坂峠へは多少のラッセルをするものの、3時過ぎに着いた。そこで小屋泊まりとなり翌朝は甲武信ヶ岳だが、2000mから2500mともなるとさすがに積雪量も多くなり、女1人が絶えずラッセルしながらの工程はきつい。
潤の身長は165cmで体重は48kgだが、その体型で雪を踏み固めるには軽すぎるのか、アップダウを繰り返しながらの稜線歩きにばてている。それでも由紀が北八ヶ岳で教えてくれたラッセルを忠実に実行している。いや、そんな技術だけでなく、精神的な教えも思い出している。
自分が積んだ訓練と体力は自信になるの。だから、毎日トレーニングしてね。辛いけどそれが頑張りに繫がると思うわ。そうすれば、山は絶対にあなたを裏切らないし。
由紀のその言葉を常に頭においている潤は、大学へ行くときも1駅分手前で降りて早歩きしたり、エレベーターやエスカレーターも極力使わなかった。それに腕立て伏せや腹筋に腰わりなどで、筋力を鍛えていた。そして、メンタルな面では1人になった時のことを考え、どんな時でも冷静な判断ができるようにイメージトレーニングもしていた。
息が荒くなり唾が出ないほど喉が渇く。潤はこまめに水分を取っていたが、破風山の頂で大休止した。
目標の甲武信ヶ岳はこんもりとし目の前にあるが、まだ急坂を降っては昇り返さなければならない。煮立てた紅茶に赤ワインを淹れたので、冷えてくる汗を暖めるようにして飲んだ。それにアーモンド入りのチーズを齧った。
富士山や南アルプスを眺めながらのティータイムは、冬山にいることを忘れさせるような穏やかな陽気で、このまま寝てしまいたいと思う潤だった。だが、彼女は30分ほどで腰を上げた。遠くの山に傘雲がかかっているのを見たからだ。
昼過ぎから稜線は風が強くなり、下から吹き上げてくるようになった。それも雪混じりで、ラッセルで汗をかいているはずの潤の体温を容赦なく奪っていく。
青空でも山に傘雲がある時は天気が崩れるからなるべく急ぐこと。
由紀の言葉を思い出した潤は急坂を降っている。
樹林帯の中に小屋を見つけるものの、身体は思うように前に進まない。昇りがきついのは当然だが、降りとて吹雪の中は相当ハードなようだ。ゴーグルは吐く息で曇り、それが凍り付いて視界をさらに遮る。そういう頑張りでようやく小屋に着いた潤は、ほうほうの体でザックを肩から放り出すように降ろした。
誰もいない小屋は外よりましだが、それでも気温は氷点下10℃ぐらいだろうか。吐く息が白くなる。吹雪はますます強くなり、強烈な風の音が聞こえてくる。そんな中、潤はコンロで暖をとりながらラーメンをつくった。熱いスープは喉が痛くなるほどで咽かえりそうになるが、食べているうちに身体が温まってくると人心地がついてくるようだった。それでも夜中には寒さで寝られないと思ったのか、彼女はテントを張った。その中でシュラフに潜り込むと、あっという間に眠りに落ちていった。
由乃は書き上げた自分史をまとめると、いっきに読めるようにしてブログに再投稿した。
それまで少しずつ増えていた閲覧者が「六文銭を用意しておこう」の総集編を読んでは、各自のブログでそのことを紹介した記事を書いたのか、由乃へのコメントがいつになく多くなった。
それを見てはにんまりしたり目を細めたりするが、書き上げてよかったという満足感でいっぱいの由乃だった。
痩せ衰えた身体を炬燵で足を伸ばして仰向けになると、涙が自然に零れる由乃だが睡魔に襲われるようにそのまま寝入ってしまった。
春樹は手洗いを済ませると、炬燵で寝ている由乃に布団をかけてやった。
開いたままのノートパソコンのマウスを動かすと、黒かったモニターにぎっしりと書かれた文字が浮かび上がった。
それを読み進めるうち、春樹の胸は痛くなった。熱くもあり、息苦しくもなり、涙が止めどなく溢れる春樹だった。
潤は新雪を踏み抜かないように注意しながら、頂上から千曲川源流沿いの道を降った。そして、昼過ぎにはバスに乗ることができ、八ヶ岳山麓の食事処で腹を満たした。そうなると、3日間の雪山での疲れを癒したくなり、近くにある日帰り温泉に行った。
潤が自宅以外の風呂に入るのは友人同士で行った先の温泉や、春樹と戯れた後のラブホテルの風呂でそれぞれいいものだったが、今のが最高だと思えた。湯舟から雪で真っ白な山を見ているだけで幸せだし、その山に登ってきたんだという充足感でいっぱいだった。さらには風呂上りのビールでご機嫌な彼女は春樹に電話をかけた。
「今平気?」
「あー。休憩してるところだから」
「今ねー。甲武信から降りてきたところ」
「へー。雪はどれぐらいだった?」
「30から50cmぐらい。でも昨日は吹雪かれて、今朝なんか新雪のラッセルで大変だった」
「女1人で、たいしたもんだな。俺より凄いよ」
「これも村井さんに山のよさを教わったお蔭だね」
「いや。俺じゃなく、長田由紀さんだろう」
潤は雪の名前を春樹にいった覚えがないのに、どうして知ってるのかと不思議だった。
蓼科温泉で潤と由紀が、由乃と宿で一緒になっていたことを春樹が話した。
「そうだったんだ。あの人が村井さんのお母さんとはねー・・・」
「そのお袋が自分史みたいなのブログで書き上げたんだけど、なんか調子悪くて寝込んでる」
痩せて皺だらけの手が印象に残っている潤は、由乃の容態が気になった。
「病院行くようにいったの?」
由乃は病院から戻ると春樹が好きな鳥のから揚げの用意をし、息子の帰宅を待っていた。
「どうだった?」
「軽い過労だって。栄養つけてよく寝れば心配ないらしい」
春樹はさっと風呂に入り、ビールを飲み始めた。
「温泉でも行けばいいのに」
「そうしようかね。で、春樹のほうはどう?仕事は順調なの?」
「段取りの都合で明日から5日間ぐらい休みになるけど、心配ないよ」
「そうかい。じゃ、揚げるとするかね」
由乃がつくる鳥のから揚げはニンニクと生姜がたっぷりと効いていて、ビールのつまみにはもってこいだった。
「美味いなー。お袋の味加減は最高だよ。俺も早いとこ結婚して、嫁さんにこの味を覚えてもらわないとな」
「そうだよ。山が好きならこないだの写真の子みたいな女性がいいね」
由乃は蓼科温泉で知り合った潤と由紀のことをいった。
「2人とも美人でいい子だった。スタイルとか顔がいいだけじゃなく、話すことに人柄が滲んでてね。春樹にも見せてやりたかったよ。」
由乃が褒め上げるその1人、潤とは何度となく肌を合わせている春樹。
後姿のままで由乃は話し続ける。
「春樹に好きな女性がいるなら、早く連れて来てほしいね。孫の顔が見たいもんだよ」
「早いとこ子供でもつくるか」
「そういう子がいるのかい?」
「あー。明日その彼女と会うから連れて来るよ」
潤は春樹と一緒に彼の自宅に行った。
出迎えた由乃は潤の顔を見るなり、絶句してしまった。
潤のことを春樹が紹介するが、由乃は胸を押さえたまましゃがみこんでしまった。
「どうしたんだよ?」
そう聞かれても由乃は言葉が出ない。
「喜んでくれないのかよ。昨日、あんな女性ならいいのにっていってた、その彼女だよ」
由乃は口にできないほど喜んでいた。と同時に胸が圧迫され、嬉しいとだけいうのがやっとだった。
その様子に異変を感じた春樹が救急車を呼んだが、由乃は意識をとり戻すことなくその夜のうちに亡くなった。
春樹は母の葬儀を済ませると、潤と一緒に山に行った。
「お骨を山で撒くのはいいけど、それじゃお墓に入れないの?」
「墓なんてないし」
墓があろうとなかろうと、春樹は山で散骨したかった。できることなら、由乃と一緒に山に登りたいと思っていたからだ。
「富士山。お袋が唯一登った山らしい」
「今日はこんな天気で見えないけど、明日は見えるんじゃない」
2人は早々とテントに入っている。
「明日は回復するっていってるけど、風が凄いな」
「こないだの甲武信の時と同じみたい」
「小屋泊まりならどうってことないけど、テントだから訳が違うだろう」
日が暮れると風は強まるいっぽうだった。
「ね。テント飛ばされない?」
「ブロックで囲ってるし、ペグだってしっかり打ち込んであるから平気だろう」
雪上でテントを張るのはこれで3回目の春樹だが、それは誰が見ても文句をいわない代物だった。
「怖い」
シュラフに包まっている潤は、身体を半回転させて春樹に寄り添うようにした。
春樹は山で吹雪かれた経験をしてるので、さしたる恐怖感はない。
「大丈夫かな?」
「平気だよ」
いくら雪でブロックを積んで風除けにしているとはいえ、風向きは一定してる訳ではない。風圧でテントが傾いだりすることもしょっちゅうだった。
夜が明けても風は強く、潤がテントの外に出ると吹き飛ばされそうになる。
関東地方の沿岸部に雪が降るケースとしてよくいわれるのが、八丈島の南を低気圧が通過する時だった。今はまさにそれで、さらには日本海に張り出した低気圧が猛威を揮い、小金沢連嶺は地吹雪に襲われていた。これでは冬山の経験が少ない潤がいくら頑張ろうにも、精神的に気後れしてしまうというものだ。
「湯ノ沢小屋まで戻ろうか?」
「今はここにいたほうがいいよ。もう少し待ってから行動しよう」
まだ6時で、湯ノ沢小屋に戻るとしても時間的なゆとりはたっぷりある。それで、潤は吹雪が収まってから行動しようといった。
「じゃ、飯でもつくるか」
春樹1人ならさっさと小屋まで行ける自信があった。だが、潤がいる以上無理をする気になれず、春樹は雑炊をつくった。そして、由乃がつくりおきしてあった最後の鳥のから揚げをその中に入れた。
「ニンニクが効いてるから身体が暖まるよ」
「うん。美味しい」
「お袋の最後の料理がこのから揚げだった」
「いいお母さんだったのに。温泉で一緒になった時、村井さんが初めて雪山に行ってるって心配してた」
「今じゃ、潤の親が心配してるだろうな」
「そうかも。でも、これぐらいのことで、私は死なないよ」
昨夜からの吹雪は吹き溜まりでは30cmを超し、テントの雪を払うことを怠れば潰されてしまうぐらいだった。
「いつかは北鎌尾根へ行くんだもんな」
「そう。長田さんもいつか行ってみるといいっていってたし。孤高の人読んだら絶対行きたいと思ったよ」
「だったら、これぐらいの吹雪で弱気になるなよ。加藤文太郎はテントもなしで挑んだの知ってるだろう」
「うん」
山へ行こうと誘ったのは春樹のほうだった。潤は母を亡くして気落ちしてるだろう春樹を元気付けるため、山に行ってきたばかりだったが付き合ったのだ。だが、意外と元気な春樹。しかもこの吹雪に動じることなく、酒まで飲んでいる姿にほっとするやら呆れてもいた。
「停滞するのは俺たちだけでいいから、前線が早く通過してくれればいいんだけどな」
春樹はテントから顔だけ出して煙草を吸おうとするうが、吹き殴るような雪にすぐ顔を引っ込めた。だが、ペグを引っ張る紐が緩んだりしていないか、外に出て点検をした。
「ウ〜。寒ぅ。薄日が差し出したから、昼には落ち着くと思うよ」
春樹のその予想は当たらず、前線を伴った低気圧の動きは遅く、さらに他の低気圧も接近していた。
「久しぶりにエッチでもしようか」
潤はあからさまなその言葉に顔を赤らめるが、とてもそんな気になれないし、できる状況でもなかった。だが、春樹は潤を抱き寄せてキスした。
「よそうよ。そんな気になれないから」
それでも春樹は潤の舌を絡めとり、シャツをまくりあげて乳房をもみしだいた。そうされてるうちに潤は忘れかけていた本能が蘇り、寒気も感じなくなり次第にその気になっていく。
春樹は手を払いのけられ、愚図っている小さい赤ん坊の頃の夢を見ていた。
母親の乳房をまさぐるのは赤ちゃんだけでなく、授乳時以外でも3歳頃までは普通の行為だろう。だが、由乃は春樹に母乳を与えず粉ミルクで育てた。それでも彼は本能で乳房を触りたかったのだろう。それさえも拒絶されることが多かった。
それだけに、春樹は男として目覚めたとき、真っ先に乳房に触れたがった。それは愛撫というより、母乳を欲する赤子のようだったのかも知れない。
起きて、という声で目を覚ました春樹は、眉毛が雪で白くなっている潤の顔を見た。
「外に出たのか?」
「だって、テントが潰されそうなぐらい雪が降ってるし」
春樹が時計を見ると昼過ぎだったが、雪はいっこうに止みそうもなかった。
食料はたっぷりあるし燃料の心配もなかった。
「冬なんだから雪が降ったっておかしくないだろう」
「そうだけど・・・」
「低気圧の動きが遅いだけで、明日になれば止むだろう。今度は潤が寝てなよ。俺は起きてるから」
「寝る気になれないよ」
いざというときに寝不足では困るので、それとなくいう春樹の言葉で潤はシュラフに入った。
潤は加藤文太郎が遭難死する時はどういう思いだったのだろうと、目を閉じながら考えていた。だが、怖くなって家族の顔を思い出した。
このまま死ぬことなどありえないとは思うものの、山の恐ろしさを身に感じてしょうがなかった。
「俺が誘わなければこんな思いもしなかったのにな」
「そんなこと思ってないよ。ただ、こんなに雪が降るとは思ってなかったから」
シュラフごと潤の身体を抱き寄せ、春樹はリズムをとるように彼女の背中を軽く叩きながら寝かせつけた。
母を亡くした春樹にとって、怖いものといえば潤を失うことだろう。だが、彼女の気持ちがどうなのかと思えば、結婚してくれるとは断言できない。それでも、こうして山に付き合ってくれるのだから、満更でもないことは確かだろう。
その翌朝は晴れ渡った青空に太陽が輝いていた。
だが、降り積もった雪は30cm以上で、2人はわずか4km先の小屋にたどり着くまで半日を要した。
「どうする?このまますぐに降るか?」
「うん。温泉入りたい」
林道にも雪がかなり積もり、車は除雪車のようにバンパーで雪をはねながら走った。
石和まで足を伸ばして温泉に入った潤は、昨夜までの不安がどこへいったのかという顔つきだった。生死の境とまではいかなかったが、それでもテントごと飛ばされて谷底に落ちるのではないかと、何回も思うことがあった。それも束の間で風呂上りにはビールを飲み、家族に電話で心配ないからというと、あとは春樹に抱きすくめられるだけだった。
春樹は潤を抱きながら由紀のことを思い出している。
彼女と知り合ってなければ山に登ることはなかっただろう。それがたった1年足らずで、冬山まで行くようになった自分自身の変化に呆れ返るものがあった。少しは由紀を抱きたいという気があったが、今ではそんな気はさらさらなかった。ただ、何かの拍子で彼女の顔がちらつき、潤と比較することがある。潤に比べれば女としては成熟してるだろう。自分など、逆に手玉に取られてもおかしくはない。それだからこそ、付き合ってみたかったという無念さがあるのも事実だった。
潤から身体を離した春樹は煙草を吸った。
「もういいの?」
「え?」
「あたしたち、これで終わりにしよう」
「どうしたんだい?いきなり」
「あたしに山はむいてないって思ったの。これからは仕事を一生懸命して、イラストの勉強をもっとしたいって思った。山より、あたしは皆と適当に遊んでるほうがむいてるの。村井さんから教えてもらったこともあるけど、あたしは由紀さんみたいに強くないってことがよく分かったわ。だから、山は今日限り。それで、村井さんもね」
潤がどういう思いだか計り知れない春樹だったが、そうかと頷いた。
「だから、思いっきり抱いて。もう一度」
「俺は潤と結婚したいって思ってたんだけどな」
「それは無理。まだやりたいこと沢山あるし」
「だろうな」
「でも、あたし、村井さんのことは多分忘れないと思うな。変わった人だと思ってたら、本当に変わったよね。初めて会った時とぜんぜん別人だもん。いい思い出になると思うんだ」
母が亡くなって、初めて人恋しいと思う春樹だった。それで結婚という言葉を出したが、あっさり拒否されてしまった。それでも悔しさはない。ただ、潤がなぜ今日で終わりにしようというのか、それが気になるが、それでもそれ以上詮索する気はなかった。
潤は昨日テントで寝ている春樹が、何度も由紀の名を寝言でいうのを聞かされていた。
翌朝も快晴で、春樹が運転する車内のラジオが卒業写真の歌を流し始めた。
車は雪で真っ白な山間を分ける中央高速を疾走していた。
潤はこれで何もかも終わるのかと思うと、ラジオから流れる歌声がさらに悲しく聞こえた。
「俺はこれからも山に登る。一生登るだろうな」
「お母さんが亡くなって淋しいからよけいでしょう?」
「俺29、男だよ」
完