空想は小説より奇なり

自作小説の連載です 立ち読み大歓迎です
その気になれば細分化も可能
風越峠 吹雪編

「隣は何をする人ぞ」という予定でしたが、風越峠の続編をどうしても書きたくなってしまいました。
その気持ちが薄れないうちに連載したいと思います。
愛読のほど、宜しくお願いします。
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スレッドテーマ:小説・文学 自作連載小説
1 親と子と孫
 
 春樹夫婦の四つ児は二度目の春を迎えた。
 喜左衛門は長男らしく、下の三人を先導するかのように春雄、万蔵、越男の先頭に立ってよちよち歩きをしては転んでいる。
「大きくなったもんだ。万吉さんも、こんな可愛い曾孫たちのことを喜んでるだろう」
「お父さん。先にお線香上げたら」
 可愛い孫と戯れているうち、万吉の二回忌ということを忘れそうな景子の父上條信輔だった。
 喜左衛門の座敷には万吉の写真が飾られ、親族と知り合いが故人を偲んでいる。そのなかでも瀧は万吉との親交が深く、彼との思い出話を春樹らに話している。
「昔は髪がふさふさしてて、村の若い女子衆に人気があってな。東京や横浜に行ったときのことを面白おかしく話してくれたもんだ。若いときはよう女遊びしててのぅ。女房以外にも、何人か孕ましてたずら」
「爺ちゃんらしいや」
「駄目だよ。そんなこといっちゃ」
 孫の美穂が叱るようにいうが、瀧は猪口をひと飲みして続ける。
「あんたは万吉さんに似んでよかった。夫婦になるのは遅かったけど、いっぺんに四人も子宝に恵まれた。これも、神様の思し召しというもんかのぅ。先祖は大事にせんと。それにしても、もう一年か。齢をとるのは早いもんじゃ。わしは、あとどれぐらい生きられるか・・・」
「お酒も飲むし畑仕事もできるんだから、まだ長生きするよ」
「だといいがな・・・」
 瀧は万吉の写真を見ては何かを思い出してるのか考えているのか、次第に言葉が湿っていく。
「死ぬ前に、わしも一度歩いて、風越峠に行ってみたいもんじゃ。そうすりゃ、思い残すこともなかろうに」
「いろんなことがあったんでしょう。さぁ、飲んで下さい」
 万吉の写真を見ながら合掌していた信輔が瀧に酌をした。
「すまんですな」
「万吉さんが女遊びしてたとは、意外ですね」
「ここらじゃ、あの人は気風がよくてな。困ってる人を見りゃ助けてた。そういうこんで、誰からも好かれとったな」
「ほうですか」
 信輔と瀧は二人で万吉のことに花を咲かせ始めるが、他の者は料理と酒に舌鼓を打っている。
「相変わらずいい味だ。私個人としては皆に喜左衛門さんを薦めたいが、町長という立場上それもできなくてな」
「いいんですよ、そんな気遣いは。それより、俺は町営住宅の建築を止めてほしい」
「またそれか・・・」
「なにも、あんな山奥に建てる必要ないでしょ」
「そうはいうが温泉も掘るし、ここに客も流れていいだろうに」
「そういうことじゃないって。何であんな山奥に、場違いな鉄筋コンクリートを建てなきゃいけないかっていうことですよ。代替地なら、叔父さんが提供してもいいっていってるのに」
「そうだ。俺のところならいつでも明け渡す」
 万吉の三男の万三郎がいった。
「俺のところなら商店街も近いし、便利だべ」
「いやいや。買収費用が高すぎるんで」
「相場の半値でいいっていうとるやろ。それなら文句もあるまい」
「でもな、三百世帯を造るには土地が狭いじゃないか」
「それなら隣も売るっていうてるし」
「万三郎さんがいってる値段でいいんなら、話は別だが」
「よし。それなら俺が話をつけよう」
 
 遠海町の人口は一万人あまりでその比率は農業が六十パーセントで、工業が二十五、商店などサービス業が八で残りは無職だった。一番多い農家の実態は老夫婦に長男の三人がやっていて、その長男に嫁の来てがない。つまり、後継者難ということになる。その反対に工業は町が誘致した甲斐もあり、人口が急増して住宅難に陥ってる。そのために町営住宅建設の要望が工場団地から出され、町議会で可決されたのだった。
 町としては税収を図るためにはいつまでも農家に頼るのはどうかという懸念もあり、今後はさらに工場団地の拡充をする予定になっている。
そういう町の姿勢に、春樹は危機感を持っていた。
 
美穂が瀧と帰るというので信輔が店先まで送った。
「また、話を聞かせて下さい」
「生きとるうちにおいでな」
 信輔はお元気でと、手を振りながら二人を見送った。
「あのお婆ちゃん元気でしょう」
「そうだな。なんだか自分の母親といるような気がした」
「そういえば、お婆ちゃんが亡くなってから、もう十年ぐらいなるんじゃないの」
「この夏が十三回忌だ」
「そう。じゃ、行かなきゃね」
「夏は忙しいだろう」
「お店よりも子供達に手がかかりそう。最近は歩きまわるから目が離せないし」
「四つ児だからな。でも、子供は多いほうがいい。これに懲りず、もっと産めばいい」
「しばらくは無理ね。それより、今日は泊まるんでしょう」
「春樹君は忙しくないのか」
「田舎っぺは野瀬さんに任せっきりで、最近は山のお年寄りたちにかかりっきりだけど、今日は代わりの人に行ってもらってるし」
「こんなところで立ち話しないで、座敷に行って下さい」
「梶山さんでしたか?娘がお世話になってます。一回ぐらいうちのほうにも遊びに来て下さいよ」
「有難うございます。梅雨になれば暇になると思いますから」
「お待ちしてますよ」
「景子さんもお父さんと奥へ」
「はい。済みません。何から何まで押し付けちゃって」
「いやぁ。手のかかる子が四人もいたんじゃしょうがないですよ」
「じゃ、お言葉に甘えて」
 美紗緒が揚げたての天麩羅を運び、他の者はあいた皿などを下げたり酒を注いだりしている。そのなかを顔色の悪い由紀が口を押さえて小走りで出て行った。
「ひょっとして」
 景子がいいかけて春樹が柳下浩二を見た。
「まさか・・・」
「四十過ぎても子供はできるわよ」
 由紀が戻り皆に済みませんと頭を下げた。
「できたみたい」
「そりゃよかった。浩二もしっかりしてきたし、安心して元気な子産めよ」
 浩二は照れて俯いたままだった。
 
 万吉の二回忌が終わり、春樹と信輔は二階で茶を飲んでいる。
「今朝、この写真を持って峠に行ってきたんです」
「ほう。そりゃいい。万吉さんも峠を見て亡くなったんだし、あの世で喜んでるんじゃないかな」
「この一年、爺ちゃんがいなくなったことで自分も少し気が滅入ったりしてて、景子にあたったりしたことあったんだけど、何かいってなかったですか」
「いや」
「そうですか」
「それより、万吉さんはあっちこっちで種撒いてたらしい」
「えー。実は、今朝・・・」
 
 三科暢は主にトラック運転手相手の食堂を経営しているが、あまり繁盛していない。遠海町が町営住宅の土地を公募したとき、三科は真っ先に名乗り出たが、値段が折り合わず決裂していた。それを隣人の万三郎が一緒に併せて売ろうといってきた。売値は町の指値で、その差額分は払うからいいだろうと。
一反(約千平方メートル)の相場は千五百万円だった。それに万三郎の持つ三反を併せると六千万で、町の提示額の倍だった。だが、万三郎はその差額を捻出するからと三科にいった。
町は風越峠へ行く山間の町有地を建設候補地にし、それを検討してる最中だった。
万三郎からはこれといった返事がないので、三科は万吉の腹違いの子供であることを盾に、春樹に詰め寄った。
「な。あんたんところは喜左衛門以外にも商売繁盛だし、わしのところを買い取ってくれんか。万三郎じゃ、埒が明かんでな。買い取ってくれんなら、遺産相続起こすで」
「叔父さんが買うっていってるんじゃないですか」
「いや。安すぎる」
「安いって、いくらなら売るつもりなんですか」
「三千万だ」
「ふっかけすぎだな、そりゃ」
「何!ここだってわしにも権利があるんじゃ。でかい態度だと、考えにゃならんな」
 
 そんな三科暢の行状を信輔に話す春樹だった。
「その三科っていう人は金に困ってるのかな」
「奥さんが亡くなってから、酒びたりらしいんです。で、最近は仕事もしてないらしくて」
「強請か・・・」
「そんなとこです。爺ちゃんの女遊びにも困ったもんですよ。三千万ぐらいどうってことないけど、遺産相続がどうのとかっていわれると、出す気になれないし」
 万三郎は腹違いの兄の暢に、これまで何度か無心されていた。それだけでなく何かと援助もしていた。そういう経緯で、流行らない食堂なら一緒に売ろうといったのだ。ところが、相場の倍でなきゃ嫌だというのだから、話にならなかった。
 そんなことも付け加える春樹だった。
「万三郎さんはどうする気なのかな」
「今のところがじょじょに変わってきて、住みづらいっていってるんです。それに、山に建築は元々反対だっていうんで、俺としても何とかしてやりたいとは思ってるけど」
「でも、万三郎さんの三反だけでも、三百世帯は建つんじゃないかな」
「それがなんか、いろんな建築基準で簡単にはいかないみたいなんですよ」
「そうか・・・。厄介な人間を残したのかな、万吉さんは」
「爺ちゃんの遺書に財産は全部俺に譲るって書いてあったし、俺としては遺産相続の裁判起こされても別にどうってことないけど」
「それはどうかな。親族には相続権ていうものがあるから、その暢さんていう人にも権利はあるはずだ。その彼を認知してるかどうかで、権利の有無が変わると思うけどね」
「終わったわ」
「ご苦労さん。梶さんたちは?」
「今日は予約もないから、秀治さんたちと温泉行くって」
「そうか。俺達も行ってみるか」
「私はのんびり昼寝するわ。お父さんと行ってきたら」
「いや、温泉はけっこう入ってるし」
「そうよね。ここに来て、温泉もないわね。誰も起きてないの?」
「よく寝てるよ」
「景子も寝たらいい。疲れただろう」
 春樹にいわれ、景子は隣の部屋に行った。
「お父さんも寝て下さい。今布団敷いてますから」
「じゃ、そうさせてもらおうかな」
 仏間というわけではないが、春樹が仕事のないときに寛ぐ十二畳の部屋に万吉の遺影と神棚が祭られてある。畳の間でもソファーがあり、そこで彼は横になった。
 四人の子供は寝る前にミルクをたっぷり飲んだせいか、満足そうな顔でくすりともしない。
 そんな我が子の寝顔を見ながら、お前らはまともに育てよと思ってるうち、春樹も目を閉じてしまった。
 
 万吉は蕎麦を打っているが、その横で暢が煙草を咥えて立っていた。
「金ならこないだやったろ」
「足りないんだ、あんなんじゃ」
「そりゃ、おめぇ。一日中パチンコやってりゃ、足りなくなるのが道理ってもんだ」
「パチンコなんか、そんなにやってねーって」
「どっちにしろ、金はない。欲しけりゃ働くこった」
「こんな田舎で何の仕事があるってんだ」
「皆汗水流して働いてんだろうに」
「あんな樵みたいな真似できっか!」
「できようができまいが、生きる為にゃやらんとな。柳下。この小僧に蕎麦でも食わしてやれ」
「いらねーよ、そんなもん。それより早く出せって」
 暢は万吉の後ろにまわり、胴巻きに手を突っ込んだ。
「あんじゃねーか」
「馬鹿もん。それは仕入れの金じゃねぇか」
「そんなこと知るけ」
 暢はその金を手に出て行こうとするが、万吉はそうはさせまいと、蕎麦を打つ棒で彼の頭を殴りつけた。倒れた暢の頭は流血で染まり、万吉は呆然と立っている。
 
 異様な暑さに気付いた春樹の額には脂汗が浮いている。
 景子は薄がけを被って寝ている。その彼女を起こさないように春樹は階段を下りた。そして車に乗り込んだ。行った先は風越峠だった。
 俺も爺ちゃんと同じか・・・
 何かあったときにゃ峠に行け。あそこの景色を見てりゃ、心が落ち着くんだ。そうすりゃぁ、たいがいのことはけりがつく。
 そんな万吉の言葉を思い出した訳でもないが、峠のそよ風に吹かれてみたい春樹だった。
 車を降り峠の崖っぷちに行くと、下から風が吹き上がってくる。汗で湿った身体は冷え、寒いほどだ。
「春樹」
 その呼び声に振り返ると暢が立っていた。
「三千万出す気になったか?」
「裁判でもなんでもやればいいじゃないか」
「そうか。それならそうしよう。泣きっ面かくなよ」
「それはあんたのほうじゃないかな。万三郎叔父さんだって、いつまでもあんたのこと、面倒見るとは限らない。欲の皮つっぱらかせるのもいい加減にしたほうがいいよ」
「生意気いうな」
「柳下って知ってるだろう」
「柳下?そんなもん・・・この坂の下に住んでる奴か?」
「あぁ」
「それがどうした?」
「あんた、爺ちゃんに殴られたことあんじゃないか?」
「あの糞親父。俺のこと目の敵にしてたからな」
「糞親父はないだろう」
「ふん。おめーなんかに俺の気持ち、分かってたまるかってんだ。俺のことを認知もしなきゃ、お袋を見殺しにてよ。それなのに、お前ときたらのうのうと生きてやがる。その代わり、おめーの親は死んじまった。あの糞親父に罰があたったってもんだ」
 三科暢がこれほどまでに捻くれた考え方をするには、それなりの訳があるのだろう。それを知りたいと思うものの、認知されなかったことや母親を見殺しにされたという言葉でおおよその見当がつく。だが、万吉の評判は暢とはまったく反対に人情家ということだったし、どう見ても彼に同情する気になれない春樹だった。
「万三郎にもいっとけ。早いとこ金工面しろってな」
「叔父さんはあんたに土地を早く売るようにいったけど、あんな土地に誰が三千万も出す?買ってくれるだけましだと思わないと」
「ふざけんな。親が残してくれた土地だぞ。それも万吉なんていう糞爺じゃなく、先祖代々のだ。それを俺が食堂にして商売やってんだ。そう簡単に安く手放せるかよ」
「そんなこといってると、でっかい町営住宅が建って、日陰になるだけだね。あんたのところは」
「できるもんならやってみろ」
 暢はかなり酒を飲んでるようで、赤い顔が興奮でさらに紅潮していた。
 万三郎より二歳上だが、その顔は皺が深く年老いて見える。これまでの彼の人生が、その顔に凝縮されてると思う春樹だった。かつての柳下浩二も齢に似合わず、眉間だけでなく目尻にも深い皺が浮いていたことがある。それがいつの間にか柔和な顔になっている。人間というのは、その状況で人相が変わるものだと思った。
 悪い夢を見てそれを忘れるために来たというのに、その夢の中の男が目の前にいることに、春樹は言い知れぬ不快感が募っている。
「煙草代くれや」
「ふざけんな。そんな義理、俺にはない」
「血が繋がってるっていうのに、よくそんなこといえんな」
 暢は春樹のズボンのポケットに手を入れようとした。それを払いざまに、春樹は暢の膝を横蹴りにした。そして、車に向かって歩き出した。
 家に戻った春樹を、座敷にいる子供が顔をくしゃくしゃにしながら迎えた。立ち上がって手招きしてる者や、這いずって座敷を下りようとしてる者。何れも笑顔で、春樹に早くすがりつきたいといった感じだ。
「よーし。いい子だったか?」
 春樹は一人ずつ高く抱き上げては四人をさらに笑顔にさせる。
「どこ行ってたの?」
「峠にね」
「朝行ったのに?」
「うん」
 暢との厭なことがなかったかのように、春樹は子供達を膝に乗せたり抱いたりした。
「お父さんは?」
「お風呂は入ってる」
「お前達もお風呂は入ろうな」
 店は臨時休業で、のんびりした夕方を迎えている春樹一家だった。
「先に風呂頂いたよ」
「どうぞどうぞ」
「なかなか父親振りが板についてるみたいだね」
「そうですか」
「いい親父になれそうだ」
 信輔は娘の景子と微笑みながら、春樹と子供達を見やった。
「子供のためにもっと頑張らないとな」
「無理しなくていいのに」
「無理なんかしないさ。自分のやりたいことをやるだけだよ。ね〜」
 春樹は子供に口付けしたりくすぐったりしている。子煩悩なそんな彼に、信輔は目を細めた。
「いい月だなー」
「お父さんにビールでも出してやりなよ」
 信輔は窓際で空を仰いでいる。
「塩尻も最近は空気が澱んできて、月や星が、前と比べたら濁って見えてね」
「お父さんのところは車が多いし」
「松本と諏訪湖の間で交通量は凄いから。朝夕は都会並だね」
「ここもいずれはそんなふうになるのかな。やだやだ。星も見えないなんてやだよな〜」
 相変わらず春樹は子供をあやしながらいった。
「お風呂入るんでしょ。喜左衛門から入れて」
「はいよ」
 春樹が喜左衛門を抱き上げて座敷を下りると、残りの三人が泣き出した。それを景子がなだめる。
 その光景を、信輔が微笑ましく見ている。何の変哲もない家族の姿だが、平和な暮らしそのものに、信輔は昔の自分を見ているのかもしれない。
「いい旦那だな」
「いい人よ」
「俺もあんなふうに子供をあやしてたかと思うと、馬鹿みたいに思えてきた」
「そんなことないわよ。親なんて、皆そうでしょう」
「そう思うのは、景子がいい旦那に恵まれたからで、そうとは限らんだろう。三科暢っていう人間は親の愛情に飢えてただろうし」
「あの人はそうかもしれないけど」
「世の中には、自分の尺度だけでは考えられない人間がいるのは確かだな」
「お父さんはそんなこと考えないで、残りの人生を楽しんで欲しいわ」
「そうしたいもんだね」
 景子は洗濯物をたたんでいた手にビールを持ち、父親に注いだ。
「人間てさ、巡り合う人によって人生が決まるっていうか・・・。あの人は商売も順調でお金もあるけど、だからって、一緒になった訳じゃないし・・・。やっぱり、なにか惹かれるものがあるなって、インスピレーションあったのね。だから、仮に仕事がうまくいかなくなったとしても、絶対ついていくし。梶山さんにしても野瀬さんにしても、皆いい人ばかり」
 景子は洗濯物をたたみ終えると、子供を抱いて風呂場に行った。
 残された子供二人を両脇に抱える信輔は、新米親父に戻ったような気分だった。

 邪気のない子供の住んだ目は青く、濁りは微塵もなかった。

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2 衣食足りて礼節を知る
 
 村井春樹は田舎っぺを野瀬健太郎に任せている。その野瀬がが田舎っぺの社長に就任して一年が過ぎた。
 この間に野瀬は物流の後方支援を充実させることに苦心していた。全国各地に点在する七百余りの店舗に商品を提供するのは、思ったより大変なことだった。
 田舎っぺで扱う食材は焼鳥、ホットドッグ、ハンバーガーにおでんなど、ほとんどが肉と野菜だった。これを田舎っぺ本部が他の多くのコンビニやスーパーがやってるように自社の物流設備を確保し、それを各店舗に配送するとなれば赤字になってしまう。いくら七百店舗で食材の取り扱い量が多いといえども、売価が安すぎるからだ。それでどうしたかといえば、各地で安くて新鮮な食材を提供してくれる業者を探した。それはネットであらかたの情報を仕入れ、営業社員を現地へ行かせて交渉させた。その結果店舗の経営者自らが取りに行くということで、仕入れコストを切り詰めさせた。他には、じかに取引してくれるメーカーの開拓だった。
 そういう野瀬の苦労があってか、去年の純益は二億円を越えた。
「たいしたもんだよ」
「野菜はほとんどが各店舗で調達してるんで、大して儲けはないけどな」
「それでいいんだ。ほとんどが地方で新鮮なものが安く手に入る。それを田舎っぺが売らんがための商売したら、皆からそっぽを向かれる。オーナー達が独自に仕入れできるなら、それに越したことはないな」
 田舎のことだから近くには農家があるだろう。そこでは出荷できない野菜が捨てられるか、無人売店で一山百円ぐらいで売るしかない。そういうものを手に入れておでんにしたり調理パンの添え物にすることは、農家にとっても利益に繋がり一挙両得ということになる。
「で、今は魚を商品にしようって、皆と考えてる」
「海沿いならいいけど、山国はなかなか難しいだろうな」
「あんなに安かった鰯が高級魚になったしな」
「何かいい方法がないか、俺も考えとく」
 春樹は野瀬の報告を受けた後、酒を飲みにさらし野へ行った。
「二人揃ってなんて珍しいわね」
「まだそんなに目立たないな」
「三ヶ月ちょっとだし」
「それにしてもさ、浩二と、いつどういうふうにして、こんなことになったのか聞きたいもんだ」
「やーね。村井君ったら」
「俺も聞きたいよ」
「いいじゃないの、そんなこと」
 梅雨を思わせるようなじめじめした陽気が続き、由紀は水浅葱にピンクの朝顔をあしらった縮緬の浴衣を着ている。後ろ髪をアップにしたうなじから背中にかけては、肌が大きく露出していた。その彼女がカウンター越しで客に酌をすれば、ほのかな化粧の匂いが漂う。そればかりか大きな胸元が開き、そちらに目を奪われそうになる。
「浩二の奴。由紀のこの色気に参ったんだろうな」
「おかしなこといわないでよ」
「由紀は昔から大人びて色っぽかったからな。俺だって、村井がいなきゃ付き合いたかったよ」
「なにいってんだかね、二人とも」
「美味いな。鯵か?」
「そうよ。千葉の漁師料理でナメロウっていうの」
「刺身をみじん切りにして味噌で味付けか・・・。これにちょっとつなぎの小麦を入れて、つくねにして焼いてみてくれないか」
 由紀は大葉とネギを細切れにして混ぜたものと鯵だけのもの。それに椎茸を合わせた物と三種類焼いた。
「これならいけるな」
「うん。合わせるもので味はかなり変わるけど、焼き方しだいでジューシーにもなるし」
「焼鳥みたいにするのもいいけど、ハンバーガーのパテにもなるぞ」
 春樹の思いつきに、野瀬が頷いた。
「やっぱり、俺と村井とでは物の見方が違うっていうか、観察眼が凄いよ」
「何の話?」
「田舎っぺで魚をつかって何かできないかってことだ」
「へー。飲みに来てるっていうのに、二人とも商売熱心なこと」
「そんなことないけど・・・。ただ、どうしても仕事に結びつけちゃうっていうか・・・。悲しい性格だよな、俺って」
「四つ児じゃなきゃ、まだ甘い新婚生活なのに、可哀想なもんだ」
「だろう。俺って、ついてないよな」
「なにいってんのよ。四十過ぎてから、あんなに若くて美人の奥さんもらっておきながら。そんなこというと、罰あたるからね。こんなおじさんと一緒になった奥さんのが、よっぽどついてないわよ」
「ひでぇーいいかた。俺の息抜きはここしかないっていうのに」
「奥さんは息抜きなんてしてないんじゃないの?それなのに、全部奥さんに押し付けて、自分は息抜きなんて、ずるいよ」
 由紀がいうほど、春樹は女房に何もかも押し付けてはいない。子供達を風呂に入れるのは彼がやっていたし、オムツの交換もした。時にはミルクをつくったりもしていたが、酒を飲みに来て、そんな私生活の細部を話す気にもなれない。それで、彼女にいわせ放題にしている。
「それはいいすぎだな。由紀だって、村井の仕事熱心さは知ってるはずだ。いや、仕事だけじゃなく、何でも真面目だ」
「そうだけどさ、たまには奥さん孝行してあげなさい、ってこと」
 
 さらし野から戻った春樹は子供達の寝顔に目を細めている。
「あまりお酒の息、吹きかけないで」
「そうだったな」
「まだ飲み足りないんじゃないの?」
「そうだな。一緒に冷酒でも飲もうか」
「そうね」
 二人が結婚して二年半。
酒を注ぐ景子の手は、洗濯や店の荒いものなどで脂っけがぬけて皺が多くなっていた。
「来月は誕生日だな」
「うん。もう三十になるのね。早いな」
「もうじゃなくて、まだ、三十だよ」
「ものはいいようね」
「そうか?誕生日には新婚旅行しよう」
「行きたいけど、子供達がいて大変だし・・・。もう少し大きくなってからでいいわよ」
「今しかできないことがある。先延ばししてると、今できることもできないんだって」
「何?今しかできないことって」
「旅行じゃないか」
「だから、この子達を連れて旅行することがどれだけ大変だか、分かるでしょう」
「二人っていうのは、楽しいことは二倍。辛いことや大変なことは半分になる」
「理屈はそうだけど」
 春樹は旅に出たかった。
 景子と知り合ってから一緒に行ったのは、田舎っぺを立ち上げて視察を兼ねて新潟や福島などだが、旅行には程遠いものだった。子連れで新婚気分は薄れるだろうが、それでもどこかに行きたいと思う春樹だった。
 風呂上りの景子の顔といい首筋。それに手の甲までが赤く染まっている。その彼女の肌に久しぶりに触れた春樹は、何もかも忘れて一心不乱になった。彼女も子供達が起きるのではないかという心配をよそに、半狂乱の嗚咽にわなないた。
 景子はシャワーを浴びるとすぐに寝たが、春樹は湯舟の中にビールを持ち込んでいる。
 金はある。気立てがよくて美人の女房もいる。さっきのように、毎晩歓喜の海に漕ぎ出すこともできるだろう。いや、それはしてきてたが、さすがに毎日というのは気がひけた。ひけすぎて、今夜は二ヵ月ぶりだっただろうか?
 それはともかく、何かが足りない気がしてしょうがない。夫婦とか家族なんて、所詮こんなものなのかもしれないが、これでは独りでいるときと、心情的に変化がないように思えてしかたのない春樹だった。たまに外で酒を飲むとしても、梶山や野瀬で顔ぶれはいつも同じだった。飲みながら馬鹿話もするが、仕事の話になることが多かった。
 これが夫婦の倦怠期って奴か?否、そうじゃない。俺自身の倦怠期なんだ。
 春樹は飲み足りないビールをさらに持ってきては、寝るような格好で湯船につかりながら飲んだ。
 
 万三郎は何とか三科暢を説き伏せ、町の提示額で土地を売却した。そして、町営住宅予定地だった風越字小椋の山林五反を格安で手に入れた。
「それにしても、あの三科がよく手放したもんだね」
「三千万のうち二千万やるからっていったんだ。俺が三反であいつは一反だろ。いくら強欲な奴でも、俺がこれだけ泣くんだから、あいつだって折れるしかないだろ」
「へー。それにしても叔父さん。あんな山奥で何する気なの?」
「これといってどうこうする気はないけど、今のところから逃げ出したいだけだった。昔を知ってる人間なら誰でもそうだろうが、あそこは、あまりにも変わりすぎた」
 万三郎は遠海町役場から少し離れたところで農業を営んでいた。
 村井万吉は五人兄妹の総領として蕎麦や白菜の栽培を両親とやっていたが、戦争が終わってみれば弟二人は戦死し、田畑は荒れ放題で農家としてやっていく気になれなかった。それでも万三郎は両親と万吉から引き継いだ三町の田畑を蘇らせようと必死だった。土を掘り返して肥料を撒き、何とか収穫できるようになったのは昭和三十五年頃だった。このとき、両親は戦争の苦労で長生きすることなく息絶え、妹は九州へ嫁ぎ、身近な親族は万吉一人だけとなった。その万吉は風越駅前で萬屋を始めていた。
 万吉はこれからは農家じゃ食っていけないとよくいっていたが、万三郎は土いじりが好きだった。種を撒けばやがては芽を出し成長していく。収穫するまでは大変な労力だが、そういった日々の過程を見ているのがなんともいえず好きだった。まるで我が子を育てている感じなのだろう。実際、彼は三人の子を儲けたが皆女ばかりで、それも今では孫もいる。妻は既に他界し、悠々自適な暮らしとまではいかないが、これまでに田畑を切り売りしてきた金もあり、自分一人が生きていくには十分すぎる蓄えがあった。だが、腹違いの暢に無心され、それも今では二千万ほどしか残ってない。
 池田隼人から田中角栄内閣までの高度成長期時代。農業は手作業から機械に変わり格段の進歩を遂げたものの、万三郎は相変わらず昔ながらの有機肥料栽培に固執していた。鶏糞や人糞を撒けば、建て込んできた住宅から苦情が出るという塩梅だった。やむを得ず化学肥料に切り替え、作付面積も縮小してわずかばかりの耕地を持っていたが、周りの沿道にはビルも建ち始め、農業を続ける環境ではなかったし、彼自身の体力も衰えてその意志も弱くなっていた。
 人間六十も半ばを過ぎれば、いい加減厭になってくるというものだ。自給自足ではないが、自分が食べる分だけの作物を耕しているそばで、ストリップ小屋やパチンコ屋の宣伝カーが通って行く。兄の万吉と違い生真面目な万三郎はそういうのが耳障りで、時には鍬を投げつけてやりたくなる性分だった。
 
その彼が山林を切り開いて住みたいという気持ちは、春樹にもよく分かる。
「今、どこの地方でもそうだが小さい子供が少なくて学校が廃校になってる。それで、里親になってだ、風越の役に立とうかなんて分不相応なことも考えるんだがな・・・」
「叔父さんらしいや。山村留学か・・・」
「あー。それだ」
「皆が春樹みたいに子沢山なら風越の分校も心配ないが、ここだって子供の数は増えないしな」
 平成の市町村大合併。そして文部科学省による公立学校の統廃合により、風越でも小学校と中学校が一緒にされたばかりだった。それでも児童数は三十人にも満たず、廃校になるのは目に見えていた。
「無学だったから畑やるしかなかったが、これからは農業だって馬鹿じゃできない」
「馬鹿じゃできない・・・」
 春樹は万三郎の言葉を鸚鵡返しで呟いた。
 そこに梶山夫婦が訪ねて来た。
「どうしたんだい?こんな時間に一緒に来るなんて」
「ゴールデンウイークが終わったらさっぱりで」
「そういうときもあるって」
「ちょっと旅行でもしようと思って」
「いいねぇ。行ってくればいい」
「あなたも行きたいのよね」
「お前が行きたくないっていうんなら、しょうがないだろう」
「行きたくない訳じゃないけど、子供四人もいたら疲れるだけでしょう」
「それはそうですよね」
「で、どこへ行くんだい?」
「波流美が前に行った九州がいいっていうんで」
「別府なんだけど、安くていい湯治宿なんですよ。そこで、旅館の勉強も兼ねて」
「いいじゃないか。ま、ゆっくりしてきなよ」
「別府なら俺の妹がいる」
「そうでしたか。それなら、何か言付けでもしてきましょうか」
「や、あんたらは夫婦水入らずで楽しむがいい。こっちは改めて行くとするし。ただ、ひとつだけ頼んでいいかな」
「何ですか?」
「別府から由布院のほうに行けばかなりの田舎だ。そこらの学校がどういう状況だか見てもらえればと思ってな。ま、写真でも撮ってきてくれりゃ有難いがな。あっちまで足を伸ばせばの話で、無理に行かんでもいいし」
「分かりました。写真ならたくさん撮ってきますよ」
「ついででいいから」
 万三郎がそういって帰った後、春樹は山村留学のことをそれとなく梶山に話した。
 
 さらし野で食べた鯵のナメロウを商品化するため、野瀬は千葉県の九十九里に出向いて色々調べた。調理はいたって簡単で、切り身を包丁で叩いてみじん切りにし、それに大葉やネギと味噌や醤油と味醂で合わせるだけだった。さらに、それを焼いたものがサンガということも知った。
 漁業組合が紹介してくれたのは廃校を利用した翔蛍庵という宿だった。
「懐かしい。木造校舎なんて、いまだにあるのね」
 野瀬の妻である結衣は、下駄箱からスリッパを出しながら感激していった。 岐阜育ちの彼女は木造校舎で学んでいたのだ。
「泉や遠海にもなかったな」
「そうよね。子供達は皆鉄筋コンクリートの学校だったし」
 廃校になってまだ間がないのか、通された教室の机や壁などに残されている落書きが新しい。窓際を仕切ったところが客室で、ガラス窓が風で揺れている。そこからは校庭が見え、暮れなずむ空にドボルザークの新世界が響き渡っているような気配だった。
 野瀬は小学校時代を思い出しながら、鉄棒やシーソーなどの遊具を見つめている。
「ここに通ってた子供達は、今何してるんだろうな」
「漁師や農家が多いんじゃないかしら。それに都会に出て、サラリーマンやってる人もいるかもしれないわね」
「ここで仕事してるほうが幸せだと思うけど、そうもいかない事情ってもんがあるし」
 夕食は玄関脇の中庭でバーベキューだった。鰯や鯵だけでなく鯛の塩釜焼きに、もちろんナメロウにサンガ焼きもあった。それだけでなく、安く入手できたといって、鮑も焼いてくれた。
「七千円でこんなに出してくれていいんですか?」
「魚は地元で安いから、お客さんはそんな心配しなくて大丈夫ですよ」
「それにしても新鮮で美味しい」
「山梨じゃ海がないから、こんな美味い魚はそう手には入らないでしょうね」
「えー。川魚ばかりで」
「岩魚や山女ですね。渓流魚もよほど山奥に入らないと、なかなか釣れんでしょうな」
「鱒なら養殖ものがけっこう釣れますけどね」
「それじゃ味がないし。魚っていうのは、プランクトンや海草を食べてるからこそ、私達の口に入って旨味がある。養殖ものには、それがないんじゃないですかね。鯛やハマチにしてもそうだけど。日本の魚介類の二十五パーセントは養殖だっていうし、漁業も変わったもんですよ」
「ここにはどれぐらいの生徒がいたんですか?」
昭和三十年代のときは三百人ぐらいいたけど、その後は減る一方で、廃校間際のときは二十人足らずでした。二百海里問題やオイルショック。漁師も年々減っていくし、農家だって減反でやめる者も多くてね」
 宿の主は漁協を退職した六十歳代の男で、町から業務委託を受けているという。人のよさそうな主夫婦は話しながらも、一組しかいない野瀬夫婦に酌をした。そして、食後は裏の田圃に現れる蛍を見に連れて行った。
 野瀬は帰路で、妻に魚で何かいい料理ができるか聞いていた。そして、帰宅後は結衣に早速いくつか試作させたが、知名度の高いサンガを串焼きとホットドッグとして商品化することにした。
 その夫婦の元に手紙が届いた。差出人は廃校の宿翔螢庵からだった。
 内容は、結衣が撮影した翔螢庵や付近の画像をメールで送ったことに対する礼状で、拙いホームページに花が咲いたようで有難いものだと書かれていた。その翌日には味醂干しまで届けてきた。これには結衣も吃驚し、メールでは失礼だとばかりに礼状を添えてワカサギの佃煮を送った。
 そんなことを野瀬が喜左衛門に行って話すと、万三郎が衣食足りて礼節を知るだなといった。
「俺だよ。それをいうなら、俺のことだよ」
「確かに、春樹もそうだな。爺さん婆さん達に弁当配ってるしな。俺もお前に負けずにやらんと」
 万三郎は蕎麦湯で焼酎を飲んでいる。揚げ出し豆腐をつまむ手と顔は赤銅色で皺が多いが、健康そのものといった風体だった。
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3 立志と煩悩

 いつになく遅い梅雨が明け、都会でも濁った青空の日が続くようになった。
 小此木陽太は終業式が済むと校門で待っていた父と、しばらくは学校やその周りを懐かしむように見ていた。
「どうだ?もう気が済んだか?それとも、このまま残ってもいいんだぞ」
「行く」
「そうか」
慣れ親しんだ道を自宅には戻らず、二人はそのまま駅に向かった。
家を見ておけばよかったかと後悔のようなものがあったが、八王子を過ぎ相模湖を抜けると両側に見える山並みの車窓に、陽太はすっかり旅人の気分でホームシックなどどこ吹く風といった感じだった。父の陽一郎が買ってくれたホットドッグを頬張りながら、彼は新天地の風越駅で降りた。
その陽太と夫を出迎えた小此木麗奈は、二人の肩に手をまわして抱き合った。
そんな家族を優しいまなざしで見ているのは万三郎だった。彼は挨拶もそこそこに、家族を風雲舎に案内した。
「奥さんも今日から風越荘でなく、ここに住むんですな」
「はい。色々と有難うございました」
「いいところじゃないか」
「なんにもないね」
「でも、陽太を苛める子はいないし、皆いい人ばかり」
「陽太君。ここは何もないから、自分で作らないとならないんだ。陽太君がいいの作れば、後から来る子だっていいのを作ろうとする」
「作るって、何を」
「君が欲しい物さ。何が欲しい?」
「アイスクリーム」
「それなら牛とか山羊を飼わないと駄目だな。乳を搾らないとならないしな」
「そんなの飼ったことないよ。犬なら小さいときいたけど」
「じゃ、やってみようじゃないか。牛は高いから、山羊にしよう」
「本当?」
「本当さ」
 陽太の目が生き生きしている。
「山羊って、髭あるんだよね」
「そうだ。愛嬌があって、可愛い奴だ」
「飼ってみたい。早く」
「じゃ、ちかいうち一緒に買いに行こうな」
「本当に、山羊を飼うんですか?」
「勿論です。本当なら牛を飼いたいけど、ここはそんなに牧草もない。でも、山羊ならなんとか飼えるし」
 麗奈は山羊のヨーグルトが好きだといい、陽一郎は息子だけでなく妻までがはしゃぐ姿に、ここへ来てよかったと思う。
 
 野瀬夫妻が開発したサンガのホットドッグは、魚肉に大葉と玉葱のみじん切りを混ぜることによって、生臭みがなくなるばかりか食感と味もよくなった。肉と違って脂分の少ない魚肉は焼くとぱさついてしまうが、片栗粉とオリーブオイルを繋ぎにすることで解消できた。
サンガは本来鯵や鰯を使うが、多くが山国に店を構える田舎っぺでは新鮮な魚介類は入手しづらい。そこで、使用する魚類は各店舗に任せた。それにより、一般に出まわることのない各地の地魚が利用できることもあるだろう。そういうことも念頭に置き、結衣は事細かなレシピを一ヶ月ほど前、田舎っぺのホームページで公開した。
オリーブオイルと酢が効いたドレッシングで和えた千切りのキャベツと魚肉との食感がいいと、何人かが書き込んだコメントを返している。
 実際、田舎っぺの店主もサンガを販売してはいるが、豚肉のホットドッグには敵わないのか、人気がないので作らないところが多いようだった。
ところが、人気のあるブログの管理人が田舎っぺのホームページを見て作ったところ美味しかったと書き込んだため、いっきに評判がたった。そうなると、田舎っぺの店頭には行列ができる始末だった。
「何でも宣伝の世界なのね」
「だなー。せっかく二人であっちこっち駆けずりまわってレシピを作ったところで、ほとんど見向きもされなかったのが、ブログのおかげでこの有様だからな」
 野瀬夫婦が苦笑してるところに春樹がやって来た。
「これにサンガのこと載ってるよ」
 春樹が見せたのは東京から来た客が置いていったタブロイド紙だった。
「へー。こんな新聞でも話題になってるのか」
「ドコサヘキサエン酸が含まれる魚のホットドッグは、子供の脳の発達にも効果ありだって」
「これを書いた記者も必死なんだろうな。ほんの少し魚を食べただけで頭がよくなるわけないのに、そうでも書かないと読者の目に留まらない。多分、そういうことでこれを書いたんだと思う。この記者は多分フリーで、人気がなきゃ契約を打ち切られるし」
「そうだろうな」
「ところでだ」
「うん?」
「田舎っぺのリベートを一律十パーセントに下げようと思うんだ」
 怪訝な顔をする野瀬夫婦に、春樹は続けていう。
「法人にしてても半分以上は税金だ何だで消える。それなら店主に安く卸した方のが喜んでもらえるだろう。野瀬の取り分は今までどおりにするから、それでやって欲しいんだ。お前に任すといっておきながら、いまさらこんなこというのは筋違いだっていうのは分かってるけど」
「でも、風雲舎でこれから必要になるんじゃないのか?」
「叔父さんに援助しようかっていったら、金じゃなくて知恵だけでいいっていわれた」
 変わった人がいるもんだと、春樹以上に無欲な万三郎に、野瀬は呆れ顔になった。
「分かった。今日からでも下げるようにしよう」
「済まないな」
「いや。そんなことない。元は村井の会社だし」
「それをいうなよ。今は野瀬に任してるんだからな」
「本当なら、あなたが村井さんが今いったことをいうべきだったのかもね」
「そうなんだよね」
 村井は野瀬結衣を見ながら応えた。
「って、ことは、社長としての俺がいわなきゃいけなかったってことか?」
「そうよ」
 妻と春樹が笑ってるのは、自分のことではないかと思う野瀬だった。
「俺の会社じゃなく、野瀬が社長で、千店舗の責任者だってこと、忘れるなよ」
 改めてそういわれると、震え始める野瀬だった。
「責任重大ね」
「他人事じゃないぞ。お前だって専務なんだからな」
 結衣が夫の健太郎を見つめ苦笑した。
「ところでだ」
「何だ。まだ何かあるんだ」
「泉町もいいところだけど、風越に引っ越さないか?」
「どういうことだよ?」
 万三郎が買い上げた小椋に建てた風雲舎の隣に、風越荘が引っ越すことになった。空き家になるその後釜にならないかと、春樹がいった。
「そういうことか」
「あぁ。風越の人口増加と分校を守るためにもなるし」
「うちには小さいのが二人いるからか」
「そうだ。無理にとはいわないけど、奥さんと相談して決めてくれないか」
「私は賛成だわ。駅に近いし、喜左衛門の美味しい料理を毎日食べられるしね」
 結衣は夫に考える間を与えることなく、春樹にお願いしますと応えた。
「おいおい。勝手に決めるなって」
「何いってるのよ。あなたは、風越の分校を潰す気?」
「否。そんなことはしないけど・・・」
「だったらいいじゃない」
「参ったな」
 過疎の町で育った結衣にしてみれば、廃校は他人事に思えなかったのだ。
 
風雲舎の子供たちの声が草原に響き、山羊の鳴き声は長閑だった。
風越荘が小椋で見返り桜荘として新装オープンしたのは、春樹の子供達がすっかり言葉を覚え、それぞれの個性を発揮しだした頃だった。春樹夫婦とその子供達も見返り桜荘とともに居を構えていた。
 麗奈は東京には戻らず、万三郎の手伝いで風雲舎に留まっている。子供たちの洗濯や料理。それに細々としたことを買って出た。ときには見返り桜荘の手伝いもこなした。
「若いのに、あんたはよく働くね」
「東京にいたときは部屋でじっとしてるだけだったのが、ここに来たら何だかやたらと体が動くみたいです」
「そりゃいい。健康にもいいしな」
「空気がいいせいですよ。陽太ものびのびしてきたし、いうことなし」
「でもな、ここではそうでも、実社会に出たら、また厳しい現実が待ってる。それをどう乗り切るか。大変なことだよ」
「えぇ。来年は高校だし。ここと環境もガラッと変わるでしょう。それが心配だけど、何とか自分で乗り越えて行くと思います。雨の日も雪の日も、皆とあんな遠くまで歩いて学校に通ってるし、きっと大丈夫」
 麗奈は自分に言い聞かせるように、陽太のことを万三郎にいった。
「確かに強くなったっていうか、線が太くなった。物事に動じることがなくなったし」
「そうでしょう。昔ならちょっとしたことで、登校拒否してたのに」
「山羊の世話とか、花畑を作ったり。そういうので変わったんだろうな」
「今は梶山さんと温泉のことを研究してるみたいです」
「ここらなら、多分掘れば出ると思う。そうすれば、春樹が介護してる年寄り連中も有難がるだろう」
 
 春樹は小倉に引っ越したことで独居老人達に弁当を配るだけでなく、ホームヘルパーとしても本格的な活動を始めていた。介護業者としての登録も勿論済ませ、専門のスタッフを五人雇っていた。それで一人につき三時間から四時間ほどかけて、身のまわりの世話を見させた。相変わらずボランティア同然で、介護保険料は最小限度で請求し、スタッフには月給で二十万支払っている。赤字分は喜左衛門と連結決算という形で補填していた。
 梶山が抜けた後の喜左衛門は女性だけの調理師だった。
その中に美紗緒が加わり、春樹は彼女に焼き物と揚げ物を徹底的に仕込んだ。鶏だけでなく、味のいい店に彼女をあっちこっち連れ立って味を覚えさせた甲斐あってか、彼女はその後独自の食材を使った物をメニューに加えて好評だった。たとえば牛蒡を摺り下ろして鶏皮のみじん切りを混ぜ、それを椎茸につめた物。鯰の白身を山芋の摺り身とパン粉でまぶした物などだ。
その美紗緒の夫に転任の辞令が出されたが、義男はそれを拒否してあっさりと教師を辞めてしまった。今では風雲舎で子供達に勉強だけでなく、世の中の仕組みを説いている。
由紀は浩二と所帯を正式に持った。だが、浩二は相変わらず移動販売車で鶏蕎麦を売っていた。まだ一歳とちょっとでようやく歩き始めた子供のためにも、飲み屋の亭主で落ち着きたくないらしい。
加代が結婚して海外へ行ったことで、芳江は再び一人で田舎っぺを切り盛りしているが、相変わらずの頑張りで店を拡張していた。
 
そういった者達が見返り桜荘に集まっている。それだけでなく、里子に出している家族も来て、一面雪野面の中で、ここだけは赤ちゃんの泣き声やカラオケなどで別世界だった。
幹事役の浩二はそろそろお開きにしようとマイクを握った。
「小さな子供達もいることだし、ここらで各自の部屋に戻るようにしたいと思います。その前に喜左衛門の・・・」
 そういうと春樹の長男の喜左衛門が、浩二に駆け寄ってマイクを奪った。
「僕喜左衛門。ドラエモンじゃないよ」
 やんちゃ盛りの喜左衛門に皆がどっと笑う。
「こら。お前はおどけてばかりだな」
「村井さん」
 そういう浩二に、春樹は逃げまわる喜左衛門からマイクを取り上げた。
「風腰駅の近くで便利なところからなぜここに来たかといえば、風雲舎のこともあるけど、万吉爺ちゃんが未開の地のあの風越を切り開いて蕎麦畑を耕したりしたのを聞いたことがあったからです。俺もここで、万三郎さんの開拓精神にあやかりたいって気持ちあります。叔父さんがなぜ山村留学をやりたくなったか詳しくは知らないけど、風越の分校が廃校になるのはなんとしてでも阻止したい。始めはそれだけだったけど、実際にそばにいて感じることがあった。雑木を一本ずつ切り倒したり山羊のために柵を作ったり、あの年でよくやるなって感心することばかり。自分が叔父さんの齢だったら、できないだろうってね。爺ちゃんが亡くなる前、俺によくいってたことがある。人間、欲をかきゃ恨まれる。だから、恨まれる人間になるなって。それは裏を返せば欲をかくなってことで、実際自分もそうしてきたつもりです」
 赤ん坊は寝静まっているが、春樹の息子達やそれにちかい年頃の子供たちは落ち着きがない。それを、親達はなだめながら春樹の話を聞いている。
「今の世の中は何でもかんでも、お金や地位で価値観を決めようとする傾向が強い。俺、そういうの大っ嫌いだ。こういうことをいうのはある程度お金があるからいうのかもしれないけど、ない人にも俺と同じ気持ちでいて欲しいと思う。それで、俺はワンダラーを敵にまわして田舎っぺを立ち上げたけど、その人たちは皆俺の気持ちに同調してくれて、今は野瀬も頑張ってる。そして今、ニュージーランドから加代ちゃんも駆けつけてくれて、俺は本当に、いい人間に恵まれてるって、感謝してる。それもこれも、きっとこの風越っていう土地で育ったからだと思う。途中で来た梶さんや義男さんだって、今じゃすっかり土地っ子になってる。里子に出した親達にしたら心配や気苦労も多いと思うけど、安心して下さいっていいたい。自分さえよけりゃいいっていう、そんな汚い人間にだけは、させない自信はあるんで」
「それだけじゃ駄目ですね。俺も一介の教師の端くれだったし、教育にかけては人一倍情熱を持ってるつもりです。純真無垢だけでなく、競争社会でも引けをとらない人格形成をしてみせますから」
「そうか。それもいいな」
 春樹は義男の酌を受け、乾いた喉にビールを流し込んだ。
「この義男さんが間違ったことを教えたときは、美紗緒さんに責任とってもらおう」
「えー」
 美紗緒が素っ頓狂な声をあげた。
「うちの旦那じゃどうなるのか・・・」
 皆がくすっと笑った。
「冗談冗談。義男さんなら、間違いないって。最後に俺の希望としていっておきたいことがある。いつかここを、風雲舎で育った人間や俺たちで理想の村にしたい。そのために土地を買い増しする。十町。つまり十万平米欲しいって、町にもいってある。それだけあれば、高校だって大学だって建てられる。否、学校よりも、ここを自給自足できる村にしたいんだ。そうすれば、厭な人間社会に出向く必要もなくなる。ここを、そういう村にしたい」
 
俺は酔ってるんだろうか?
いってることが皆に伝わってるのか?
 
春樹はいい終えてもマイクを持ったまま立っていた。
その彼にむけて拍手を送ったのは、一ヶ月前に入ってきたばかりの中里沙織の父親だった。彼は数年前田舎っぺが目の前にでき、夜逃げをしたワンダラーのオーナーだった。彼に続いて皆が春樹に拍手を浴びせた。
「ということで、今日はゆっくり休んで下さい」
「なんだい。いいこといった後に、それじゃしまらんなぁ。万吉親父が笑ってるだろ」
 瀧がいった。
「私は村井君を恨んだけど、こうして戻って来れたのも村井君のおかげだと思ってる。娘だけでなく、親子ともども宜しく頼む。ワンダラーのことなら任してくれ」
「そりゃ頼もしいや」
 春樹は子供達に格好良かったといわれながら部屋に戻ると、そのまま倒れ込むように眠りに陥った。
「お父さん死んだの?」
「馬鹿なこといわないの」
「お父さん死んだんだ」
 四人が心配そうに春樹の顔を覗き込んだり触ったりしてる。
「お酒を飲みすぎただけよ。あんた達は大きくなってもお酒飲んじゃ駄目だからね」
「うん。僕飲まない」
「僕も」
 四人がそれぞれにいう。
「でも、お父さんのように、立派な大人になって頂戴」
「なる」
 またまた四人の輪唱だった。
「さ、もう寝なさい」
 聞かん気の強い年頃だが、母の言葉に四人はいっせいに布団を被った。
 景子は居間でテレビを見ながら除夜の鐘が鳴るのを待った。結婚する前も後も、鐘の音を聞きながら酒を少しばかり飲み、それで一年の反省をし新年の計を考えるのが習慣だった。
「子供達はすっかり寝たな」
「あら。お芝居したのね」
「あぁでもしないと、あいつらうるさくて寝ないしな」
「本当ね。手がかからなくなった分、口が達者になったし」
「でも、可愛いもんだな、子供は」
「ねぇ」
「うん?」
「あなたも小さい頃は、喜左衛門みたいにお調子者だったの?」
「どうだったかな。爺ちゃんに、よくお灸してやるっていわれてたから、聞かん坊だったんだろうな」
「他の三人はあまり騒がないのに」
「長男てこともあんじゃないか」
 春樹はいつの間にか景子の徳利を口にしている。
「美味いな。こんな酒うちにあったか」
「陽太君のお父さんが持ってきてくれたって、さっきいったじゃない」
「そうだっけ?最後のスピーチのことで、頭いっぱいだったからな」
「あんなこといって、本当にできるの?」
「何だよ。女房が信じてくれなきゃ、やり甲斐ないだろ」
「だって、ここを理想郷にするなんて大言壮語みたいなこといってたのよ」
「大言壮語はないだろ。確かに理想だけど、万三郎叔父さんだって頑張ってるし、俺だって負けないでやるよ」
「野瀬さんがいうには、ワンダラーの反撃は激しくなってるっていうし」
「それに勝てばいいんだ」
「それはそうだけど、いつまでも思いどおりにいくとは限らないわよ」
「これから新年迎えるっていうのに、夫婦喧嘩はよそうって」
「喧嘩じゃないのよ。現実のことをいってるの。皆にあんなこといって期待持たせた挙句、うまくいかなかったら笑い者になるのよ」
「分かってるって。それより、これをもう一杯飲ませてくれないか」
「もう、飲みすぎなのに」
 春樹夫婦の新婚気分はとっくになくなり、妻の権限がいささか強くなっているようだった。
 景子が何本目かの燗をつけた頃、ようやく除夜の鐘が鳴り始めた。
「今年もいい年だといいけど・・・」
「厭な世の中だけど、ここだけはいいところにするんだ。露天風呂でも入るか」
「やめてよ。凍え死んじゃうわよ」
「死んで堪るかって。景子と四人の子供がいるのに」
 そういうと、春樹はさっと立って部屋を出て行った。
 春樹は誰もいないかと思ったが、梶山が風呂に入っていた。
「お疲れさん」
「あ、おめでとうございます」
「お互い、いい年にしたいもんだな」
「これからは村井さんに頼るだけでなく、提案できる人間になりたいって思ってます」
「いいことだ。俺も、誰かに縋りたくなるときあるし」
「本当ですか?」
「嘘いってもしょうがないじゃないか」
「ですよね」
「梶さんにも助けてもらうときがくるかもしれない」
「こっちみたいな人間に何ができるか分からないけど、そのときには役に立ちたいです。命の恩人だし」
「そのときは頼むよ」
 梶山は黙って頷いた。
 そこへ万三郎が入ってきた。
「先客がいたか」
「寒いのに、内風呂入ればいいのに」
「なぁに。昔の冬はこんなもんじゃなかった。銭湯もない時代はたらいに湯を入れて身体を洗った俺だ。こんなんでくたばるかって。それより、春樹。お前がさっきいったのは酔ってたからじゃないだろうな」
「理想の村にするっていうこと?」
「あぁ。俺は、お前じゃないが、ここをユートピアみたいにしたいんだ。お前のいうことが本当なら、願ったり叶ったりだがな」
「嘘じゃないさ。だから町に土地の買い上げもいったし」
「そうか。それなら心強いな。親父は大言壮語を言う癖があったからな」
 春樹は女房と同じことを万三郎からいわれ、舌打ちしたくなった。
「有言実行だって」
「頼むぞ」
 夜空でも雲の姿ははっきりと分かり、それが形を変えながら風で流れていく。
「雲っていうのは風で変わる。まるで、親の言いつけのように変化していく。子供っていうのはそうでなくちゃな」
 万三郎はそういうと風呂から出て行った。
 雲は次から次へと月の明りを受けながら流れて行った。

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