息子の春樹が癌かもしれないと知っても、由乃は誰にも相談しなかった。だが、入院費用がないのでしかたなく、両親へ借金の申し入れにいった。
「春樹が癌とはな・・・。だが、あれも親不孝な奴だし、このままほっといて少しは苦しんだほうがいいんじゃないか」
そういわれては返す言葉もない由乃だった。
「ま、わしにしたら孫だからなんとかしたいとは思うが、ああいう道楽息子には、もう見切りをつけてもいいんじゃないかな。由乃だって、たいがいあれには泣かされてきたし」
「お父さんの言いたいことは分かります。その上で無心にきたけど、どうやら私が甘かったようね。確かに春樹は半端者で端にも棒にもかからない。それでも私のお腹を痛めた子供なの。今日のことは忘れて」
医者から癌であることを聞かされていない春樹は、腹痛が治まると、相変わらず酒と女に日々を費やしていた。その合間に気が向けば仕事にいくといった調子だった。
「春樹。あんた明日は29才の誕生日よね」
「それがどうかしたのかよ」
「人生なんてあっという間よ。これからのことを少しは考えてる?結婚して子供ができたらお金だってかかるし、今みたいなことじゃやっていけないわよ」
「そんなこたぁ分かってるって。土曜に金はいるから、それまで2万貸しくれよ」
「あたしの全財産が20万円ある。その半分持って行けばいい。それで遊んでくればいい。でも、その後は入院よ」
「誰が入院なんだよ」
「あんたに決まってんでしょ。癌は早めにとったほうがいい。それぐらい知ってるでしょ、あんただって」
春樹は自分の病気が癌ではないかと薄々感じてはいたが、医者が胆嚢炎だというので安心していたのだった。
「お医者さんには私が口止めしといたからあんたは知らなかっただろうけど、ほっとけば肝臓や膵臓に転移して、早ければ半年で命を落とすことになるって」
家を出る際に涙を浮かべながら金を手渡してくれた由乃のことなど忘れたかのように、春樹はキャバクラで美紗緒という女を口説いていた。
「しょうがないな。明日も同伴してくれるならいいよ」
このところ金さえあれば美紗緒に入れあげている春樹は、ついに彼女をホテルに連れ込んだ。
「もう少ししたら人に会わないとなんないから、早くやって」
これまで何十人という女と肌を合わせてきた春樹だが、そんなことをいって風呂にも入らずさっさと服を脱いでベッドに行く女は初めてだった。
「ふざけんじゃねーぞ。てめーみてーな女。誰がやるかってんだ!」
そういって1人でさっさとホテルを出た春樹は、虚しさが込み上げてきて息ができないほど苦しくなった。と同時に彼の脇腹を激痛が襲い、自動販売機にもたれかかるようにして痛みが治まるのを待つしかないようだった。
「酔ってるの?大丈夫?」
口もきけないほどの痛みで額に汗をかいている春樹の様子に、長田由紀は救急車を呼ぼうかと聞いてみた。
「み、水だ」
由紀は自分の飲みかけのペットボトルをバッグから急いで取り出し、キャップを開けて春樹の口に持っていった。
それを飲み下すと胃だかなんだかが動き、春樹は唸るようにしてしゃがみこんでしまった。
「いま119番かけるから」
「やめてくれ。どうせ、来週入院するんだから」
「え?」
「終電なくなるぞ」
「そんなこといい。ね、本当に平気なの?」
「少し待ってれば治るって」
由紀はネットカフェで夜を明かすつもりでいたが、春樹をこのまま置き去りにする気になれなかった。
目を開けられないほどの激痛でずっと脇腹を手で押さえながら抱え込んでいた春樹だったが、しばらくすると嘘のように痛みがぴたっと止まった。そして目を開けると、真っ黒に日焼けした女の顔が目の前にあった。
「平気?」
「やっと治ったみたいだ」
ふーっと息を吐き出した春樹は立ち上がり、ビールでも飲みに行こうと女を誘った。
「お腹痛かったのに、大丈夫?」
「平気だって」
そういいながら煙草をふかす春樹だった。
長田由紀は韮崎の出身だが、地元の山梨の大学を卒業すると東京で就職した。IT関連の企業に就職したが3年後に倒産の憂き目に遭い、今は派遣の仕事をしながら週に2回、夜はキャバクラでアルバイトもしている。
アパートの家賃は5万円ほどだが山を登るのが生き甲斐で、日本各地だけでなくニュージーランドやカナダにまで足を伸ばすこともあり、とにかく稼がなければという毎日だった。
幸いなことに派遣といっても使い捨てにされるような誰でもできるといった仕事ではなく、中国語の通訳と貿易事務をこなしているので、週3日だけでも1ヶ月の収入は20万を越える。それにキャバクラのを併せると、多い月には35万ほどになるときがあった。それでも、それなりに服を自腹で買ったりするので、いつもぎりぎりの生活費だった。
「あたしもいつかはチョモランマに行きたいから貯金してるけど、なかなか貯まらないし。こんなふうに焼肉食べるなんて何ヶ月ぶりだわ」
「へー。山女だったのか。だから俺みたいなのも、ザイルでつないで見殺しにしなかったんだ」
「ザイルなんて知ってるの?」
「アンザイレンっていう映画見たことあるんでね」
「あれはよかったよね。見てて涙出てきたし」
春樹はこれまで見てきた女性と違う長田由紀に新鮮さを感じていた。
「いつもなら、これからホテルに誘うところだけど、あんたにはそんなことできないな」
「なにいってんだか。それより、入院するってどういうこと?さっきの腹痛が原因?」
胆嚢癌であることを話した春樹は、タクシーで帰るように1万円札を彼女に渡した。
「なによ、これ」
「命の恩人みたいなもんだし。これで帰れば。俺は歩いて帰れるから」
「いいよ、お金なんて。それより、癌なんて今は怖い病気じゃないから心配しないほうがいいわよ。お見舞いに行くね」
2人は携帯電話の番号を教えあうと店を出た。
夜更けの街でも人はあっちこっちにいるし、コンビニやファーストフードの24時間営業の店もあった。
「明日は奥多摩へ行くんだ。あそこで始発待つことにするから。あなたも元気でね。電話待ってるから」
2 春爛漫か?菜種梅雨か?
春樹の手術が無事に終わった。
懸念されていた肝臓などへの転移もなく、由乃はほっと胸をなでおろした。だが、別れた夫から借り入れた50万のことが、すぐに頭をよぎっていた。
由乃の70ちかい老齢の身では、今やっているビル掃除のパートぐらいしか雇ってもらえるところはないだろう。
そんな思いを顔には出さず、春樹を抱きかかえるように上半身を起こした。
「まだ痛むかい?」
「きりきりする」
「そうだろうね。無理しないでいいから、しばらくは。でも、できるだけ歩いたほうがいいって、先生いってたよ」
「煙草でも吸ってくるか」
ベッドから上体を起こすときは辛いが、立ち上がればなんとか歩けるし、気分もいい春樹だった。
外に出ると青空が大きく広がり、富士山が見えている。
山か・・・。あの女はどうしてるんだろう?
由紀は冬の八ヶ岳の写真を撮るため野辺山にいた。
車のドアを開けるにも寒風が吹きつけ、ようやく外に出れば吹き飛ばされそうになる。それでも限られた時間しかないので、一歩一歩足を運んだ。飯盛山の頂上は遮るものがなく、八ヶ岳連邦をはじめとした山並みが広がっていた。
そんな景色を何枚も撮り終えると、テルモスの熱いシェルパティーを飲んだ。
退院したら俺も山に行くなんていってたけど、手術は無事成功したんだろうか?
春樹から手術の前日に電話があったことを思い出していた。
いきがかり上知り合っただけの男に深入りする気はないが、見舞いに行くといった以上行かなければと思う由紀だった。
野辺山から戻った2日後、由紀はカットフルーツの盛り合わせを手に春樹を見舞った。
「元気そうね」
「お、来てくれたんだ」
「約束したしね」
「なーんだ。俺のこと好きだから来てくれたんじゃないのか」
「しょってるわね」
「あー。体力戻ったらザックもしょうぞ。槍ヶ岳に登ってみたいんだ」
春樹が本気で山に行きたいとは思ってもいなかった由紀は彼に聞き返した。
「最低でも2日かかるのよ。そこら辺にハイキングへ行くのとは違うし、それだけの覚悟あるの?」
「知ってるって。ほら」
春樹は槍ヶ岳のガイドブックを由紀に見せた。
「へー。本気なんだ。じゃ、退院したらとりあえず雲取でも行ってみる?東京都最高峰の山で2000mあるわよ」
「いいね。元はマラソンやってたし、2000mなんて楽勝だって」
そんなところに由乃が入ってきた。
由乃は美人で品のある由紀が、なぜ春樹と知り合ったかを知りたかったが、初対面の彼女に聞くわけにもいかなかった。
「お見舞い有難うございます。こんな息子ですが、宜しくお願いします。春樹。明日退院だって」
「そうか・・・」
由紀と知り合った晩に由乃からせびった残りの金7万円はあるが、それではとうてい入院費用には足りないだろう。
そんな不安が急に現実のものとなって春樹を襲った。
「じゃ、トレーニングしてね。行けるようになったら電話ちょうだい。待ってるわ。じゃ、お邪魔しました。お大事に」
由紀はそういって病室を出た。
「いい感じの女性だね。何やってる人だい?」
「そんなのどうだっていいよ。それより、金どうかなったのか?」
「あんたがそんな心配しなくたっていいの。とにかく元気になったら、今度こそ真面目にやってくれればそれでいいから」
春樹が退院して2ヵ月後は花見時だった。
春樹は元来が真面目だったこともあり、今回の入院で母親の由乃にすっかり苦労をかけたこともあったのか、すぐに仕事をしだした。本業の塗装工として、しっかりしたところに就職したのだ。
「これは少ないけど今月分だ。親父から借りたんだろ。返してくればいい」
「知ってたのかい」
「お袋の実家じゃ俺は鼻つまみもんだし、金を貸してくれるといったら親父しかいないだろ」
「あんたがしっかりこのまま働いてくれれば、実家のほうだって辛くいわないって。じゃ、これはお父さんに返しとくね」
受け取ろうとする由乃の手は皺だらけの上、加齢に伴う染みや斑点があちこちにあった。
「痩せたなぁ」
「え?」
「なんでもない。明日は休みだし、飯は外で食う」
春樹はそういうと外に出て行った。
由乃は今朝春樹の弁当を作った残り物で遅い夕食をとり始めた。
夜桜の花見でにぎわう上野公園から浅草に行った春樹は、チャットで知り合った潤という女子大生と一緒だった。その彼女とは今日が3回目の逢瀬だった。
「あたし、すき焼きがいいな」
春樹にしても昼から何も口に入れてなかったし、肉を食べたいと思っていたところだった。1人前7千円のコースを頼むと霜降りの美味そうな肉が舌の上でとろけた。
潤は美味しいといいながらビールをよく飲む。
「今日は帰らなくていいんだろ?」
「えー?」
「その顔はいいって顔だな」
「そうかな?」
由乃が夕食をとり終え風呂から上がると眩暈で倒れた。
元々血圧が低く、そこにもってきて最近痩せたせいか?
そう思うものの起き上がることもできずに意識を失ってしまった。
何ヶ月ぶりかに抱いた女は春樹がいやになるほど肌を押し付けてくるが、彼はもう精力を使い果たしていた。
春樹を睡魔が襲うが、家に帰ろうと思った。
「今度は温泉でも行ってゆっくりしようか」
「うん。あたしたち肌合うみたいだし」
まだ高校生のような潤が、ときどき春樹をドキッとさせることをいう。
「大学じゃコンパばっかりやってんだろ。男遊びばかりしてないで、少しは勉強もしろよ」
「今は授業ないし。でも、来年は就職だから頑張るよ」
「そっか。じゃ、別れのキスだ」
潤は自ら自分の舌を春樹の舌に絡めた。
そこに携帯電話の着信音が鳴った。
春樹は母からだと知ると、そのままキスを続けていた。
春樹が自宅に戻ると、由乃が浴衣姿で畳に倒れていた。
「どうしたんだよ?」
どこか具合でも悪いのかと気遣いながらも、春樹はぶっきらぼうだった。
「頭痛いから薬買って来てくれないか」
なんとか上体を起こしていう由乃。
「日曜なのに薬局なんか開いてないだろ」
「ドラッグストアやってないのかね」
「まだ8時なのにそんなのやってないって」
「後でいいから勝って来ておくれよ」
春樹は由乃を布団に寝かせ自分の部屋に行くとビールを飲んだ。そして携帯で撮った画像をパソコンに転送した。モニターには潤のあられもない肢体が映り、それをにやけながら見てはビールを飲んだ。そうして時間をつぶし10時前にドラッグストアに行き頭痛薬を買って来た。それを由乃の部屋に持って行ったが彼女からの返事がなかった。
春樹はもしかしたら由乃が脳梗塞になったのかと思い、救急車を呼んだ。
由紀は春樹が真面目にトレーニングしてるか電話をかけると、彼の母親が脳血栓で入院したことを知らされた。幸いにも症状は軽いものの、山どころではないといった感じだった。
春樹に兄弟はなく、母の看病を自分でしなければならないと思うと先が思いやられた。それに就職したばかりで仕事を休むのは気が引けた。
「春樹。お母さんの妹の美咲知ってるだろう」
「知ってるけど、あの叔母さんがなんだよ」
「美咲に電話して、来るようにいっておくれ」
春樹がしぶしぶ美咲に電話で事情を話すと、彼は散々小言をいわれた。だが、そのおかげで看病からは解放されそうだった。
由乃の血栓は薬で徐々に溶かされていったが、退院にはまだ日にちがかかりそうだった。
春樹は1日おきに病室を訪ねるものの、由乃とこれといった話もあまりせずに帰ることが多かった。
「男っていうのは何でああ無愛想なのかしらね。私に挨拶のひとつもしないし」
「済まないね。美咲には迷惑ばかりかけて」
「うーん。姉さんに文句いうつもりなんてないのよ。でも、春樹のああいうのが許せないだけ」
「あれだって、好きでああなった訳じゃないのよ。昔は素直だったの、あんただって知ってるでしょう」
高校進学で春樹の人生は変わったようだ。
その原因は春樹自身が何もいわないので、母親である由乃さえも本当のところは知らない。ただ、別れた夫が勧める進学校に無理やり入れられたのが嫌だったことをそれとなく感じていた。その証拠に半年も待たずに、春樹は自主退学してしまった。それでも夫が高校にも行かないでどうするんだと毎日叱責し、それで彼は翌年違うところに進学したが、それも2年で退学になってしまった。
高卒の夫は学歴コンプレックスが強かったのか、春樹には一流の高校大学に行ってほしかったようだが、息子の春樹はそれを頑として受け付けなかった。
春樹は小さいころから絵心があり、本当は美術系の学校に行きたかった。
それが絵なんかで人生やって行けるかという、にべもない言葉に猛反発した。それでも高校に行かなければ美大に入れないとなれば、しかたなく進学校に入学したが、明けても暮れても偏差値がどうのこうのという教師や同級生に我慢できなかった。そして、同級の女性と問題を起こして退学になってしまった。
春樹が潤の電話で駆けつけた先はイラストの展示会場だった。
「凄いなー」
「サークルの仲間でお金出し合ってさ、1年に1回はやってるんだ」
前衛的なものからアニメ系までいろんな作品があるが、春樹が好きなのはイラストというより実写に近い精密画だった。
「いつになるか分からないけど、俺も描いてみるかな、久しぶりに」
「描きなよ。描いたら見せて」
「潤のヌードでも描くか?」
「やーだ」
2人は展示会場を出てホテルのレストランに行った。
「最近チャットに来てないけど、何やってんの?」
「お袋が入院してて見舞いに行ったりとか、時間ないんだ。今日はたまたま休みになったけど」
「大変じゃない。あたしが夕飯つくりに行こうか?」
「いやー。家に女連れ込んだなんて近所に知れたら、お袋が入院してるっていうのに何考えてるんだっていわれるのが落ちだし」
「そうか・・・。じゃ、この後にいいことしようね」
意味ありげに含み笑いする潤の顔はハーフのように彫が深くて小さい。
胸元が大きく開いたティーシャツを盛り上げているバストはボリュームがあり、誰もが彼女とすれ違いざまに目をやるほどだ。
そんな潤の身体をこれから抱くのかと思うと、それだけで春樹の男心は燃え上がってきた。
ランチタイムが終わるということでウエィトレスがラストオーダーを聞きに来た。
「あたしはもうお腹いっぱい」
「水割り。それとダブルルームひとつね」
「は?」
「ダブルだよ」
「水割りのダブルですね」
「水割りはシングルで、部屋がダブル」
ようやく洒落の分かったウエィトレスは春樹を見ながらいった。
「ここではそのようなご注文はお受けできませんので、フロントへ行っていただけますか。水割りのシングルおひとつでよろしいですね」
「はい。それでいいです」
潤が春樹の代わりにいった。
「やーね。あの人、これからあたしたちがエッチするんだっていう顔で見てたじゃない」
「しないの?」
「してよー」
春樹はベッドで高校時代のことを振り返りながら潤に話している。
「俺、高校の3年間で何やってんだろうって、最近よく思うんだ」
「どうして?」
「友達もできなかったし、2回も中退して馬っ鹿じゃなかろうかってね」
「卒業しなかったの?」
「当然。好きでもないこと勉強してもしょうがないだろ。でも、2回目の高校のときは結構のんびりしてて面白かったな。私立の全寮制だったけど、とんでもない田舎でさ。近くに山や川があったりで、ちょっと可愛い子と授業抜け出して土手で寝転んだりしたりね」
「いけないんだ。不良じゃん」
「不順異性交遊っていうんじゃないか」
「やっちゃったの?その子と」
「やったね。それで退学になったし。親父には勘当だっていわれて参ったよ」
「悪い子だ」
「何いってんだよ。あんな気持ちのいいことして、どこが悪いんだよ。でも、あれで俺の人生変わったなーって、今思うんだ。退学してから絵も描く気になれなくて、仕事もしないでぶらぶらするしきゃなくて。それが元で親は離婚したし」
「そうなんだ・・・」
「お袋にしてみたら慰謝料も貰わないで、俺のこと面倒見ながら働きに出て大変だろうなって思ったよ」
そんなことを潤にいいながら、このところの春樹は由乃の見舞いも疎かにしていた。
「あれから、お袋に迷惑かけっぱなしなんだ。でも、最低でも高卒じゃないとまともな仕事に就けなかった。それなら職人で稼ごうって思ったんだ。でも、でっかい現場で朝早くから朝礼やったりとかって、俺の柄じゃなくてさ。そこらの家の塗り替えとかしたくて、あっちこっちのペンキ屋行ったよ」
最近の一般住宅は新建材が多用され、ペンキ屋の仕事が減っている。さらに悪質な業者が横行し、春樹が行っていたペンキ屋はことごとく暇になっていった。
その結果、春樹は1ヶ月のうち半月は仕事に行かないということが多かった。そういう悪循環で彼は次第に仕事をする気になれなくなり、朝から酒を飲むようになった。それでも、去年は塗装技能士1級の資格を取っていた。
そんなことを、春樹は潤の乳首を玩びながら話した。
「大変なんだねー」
「遊んでないで仕事に行けって、よくいわれたよ」
「お母さんから?」
「いや。家に電話かかってくるけど、お袋がいないから俺が出るだろ。そうすると親戚の叔母さんとか親父とかがね」
「そうか・・・。大人なんだからそんなこと分かりそうなのにね」
「分かってても、親父がいないのに、お前が母親を働かして自分は遊んでてどうすんだって。そういわれりゃ確かだけど・・・。皆、俺が悪いんだって思ってるんだろ。だから、そういう奴らの顔も見たくないし、話もしないな」
「だったら、これからは仕事のあるところに行けばいいじゃん」
「今はなんとかあるけど・・・」
先のことなど考えたくなかった。
今はそれより、目の前にいる潤という女にのめりこんでいたい春樹だった。
外はしとしと雨が降り出しているようだった。
桜も今夜が見納めかもしれない激しい降り方に変わったのは、春樹と潤がホテルを出た直後だった。
春樹の手術が無事に終わった。
懸念されていた肝臓などへの転移もなく、由乃はほっと胸をなでおろした。だが、別れた夫から借り入れた50万のことが、すぐに頭をよぎっていた。
由乃の70ちかい老齢の身では、今やっているビル掃除のパートぐらいしか雇ってもらえるところはないだろう。
そんな思いを顔には出さず、春樹を抱きかかえるように上半身を起こした。
「まだ痛むかい?」
「きりきりする」
「そうだろうね。無理しないでいいから、しばらくは。でも、できるだけ歩いたほうがいいって、先生いってたよ」
「煙草でも吸ってくるか」
ベッドから上体を起こすときは辛いが、立ち上がればなんとか歩けるし、気分もいい春樹だった。
外に出ると青空が大きく広がり、富士山が見えている。
山か・・・。あの女はどうしてるんだろう?
由紀は冬の八ヶ岳の写真を撮るため野辺山にいた。
車のドアを開けるにも寒風が吹きつけ、ようやく外に出れば吹き飛ばされそうになる。それでも限られた時間しかないので、一歩一歩足を運んだ。飯盛山の頂上は遮るものがなく、八ヶ岳連邦をはじめとした山並みが広がっていた。
そんな景色を何枚も撮り終えると、テルモスの熱いシェルパティーを飲んだ。
退院したら俺も山に行くなんていってたけど、手術は無事成功したんだろうか?
春樹から手術の前日に電話があったことを思い出していた。
いきがかり上知り合っただけの男に深入りする気はないが、見舞いに行くといった以上行かなければと思う由紀だった。
野辺山から戻った2日後、由紀はカットフルーツの盛り合わせを手に春樹を見舞った。
「元気そうね」
「お、来てくれたんだ」
「約束したしね」
「なーんだ。俺のこと好きだから来てくれたんじゃないのか」
「しょってるわね」
「あー。体力戻ったらザックもしょうぞ。槍ヶ岳に登ってみたいんだ」
春樹が本気で山に行きたいとは思ってもいなかった由紀は彼に聞き返した。
「最低でも2日かかるのよ。そこら辺にハイキングへ行くのとは違うし、それだけの覚悟あるの?」
「知ってるって。ほら」
春樹は槍ヶ岳のガイドブックを由紀に見せた。
「へー。本気なんだ。じゃ、退院したらとりあえず雲取でも行ってみる?東京都最高峰の山で2000mあるわよ」
「いいね。元はマラソンやってたし、2000mなんて楽勝だって」
そんなところに由乃が入ってきた。
由乃は美人で品のある由紀が、なぜ春樹と知り合ったかを知りたかったが、初対面の彼女に聞くわけにもいかなかった。
「お見舞い有難うございます。こんな息子ですが、宜しくお願いします。春樹。明日退院だって」
「そうか・・・」
由紀と知り合った晩に由乃からせびった残りの金7万円はあるが、それではとうてい入院費用には足りないだろう。
そんな不安が急に現実のものとなって春樹を襲った。
「じゃ、トレーニングしてね。行けるようになったら電話ちょうだい。待ってるわ。じゃ、お邪魔しました。お大事に」
由紀はそういって病室を出た。
「いい感じの女性だね。何やってる人だい?」
「そんなのどうだっていいよ。それより、金どうかなったのか?」
「あんたがそんな心配しなくたっていいの。とにかく元気になったら、今度こそ真面目にやってくれればそれでいいから」
春樹が退院して2ヵ月後は花見時だった。
春樹は元来が真面目だったこともあり、今回の入院で母親の由乃にすっかり苦労をかけたこともあったのか、すぐに仕事をしだした。本業の塗装工として、しっかりしたところに就職したのだ。
「これは少ないけど今月分だ。親父から借りたんだろ。返してくればいい」
「知ってたのかい」
「お袋の実家じゃ俺は鼻つまみもんだし、金を貸してくれるといったら親父しかいないだろ」
「あんたがしっかりこのまま働いてくれれば、実家のほうだって辛くいわないって。じゃ、これはお父さんに返しとくね」
受け取ろうとする由乃の手は皺だらけの上、加齢に伴う染みや斑点があちこちにあった。
「痩せたなぁ」
「え?」
「なんでもない。明日は休みだし、飯は外で食う」
春樹はそういうと外に出て行った。
由乃は今朝春樹の弁当を作った残り物で遅い夕食をとり始めた。
夜桜の花見でにぎわう上野公園から浅草に行った春樹は、チャットで知り合った潤という女子大生と一緒だった。その彼女とは今日が3回目の逢瀬だった。
「あたし、すき焼きがいいな」
春樹にしても昼から何も口に入れてなかったし、肉を食べたいと思っていたところだった。1人前7千円のコースを頼むと霜降りの美味そうな肉が舌の上でとろけた。
潤は美味しいといいながらビールをよく飲む。
「今日は帰らなくていいんだろ?」
「えー?」
「その顔はいいって顔だな」
「そうかな?」
由乃が夕食をとり終え風呂から上がると眩暈で倒れた。
元々血圧が低く、そこにもってきて最近痩せたせいか?
そう思うものの起き上がることもできずに意識を失ってしまった。
何ヶ月ぶりかに抱いた女は春樹がいやになるほど肌を押し付けてくるが、彼はもう精力を使い果たしていた。
春樹を睡魔が襲うが、家に帰ろうと思った。
「今度は温泉でも行ってゆっくりしようか」
「うん。あたしたち肌合うみたいだし」
まだ高校生のような潤が、ときどき春樹をドキッとさせることをいう。
「大学じゃコンパばっかりやってんだろ。男遊びばかりしてないで、少しは勉強もしろよ」
「今は授業ないし。でも、来年は就職だから頑張るよ」
「そっか。じゃ、別れのキスだ」
潤は自ら自分の舌を春樹の舌に絡めた。
そこに携帯電話の着信音が鳴った。
春樹は母からだと知ると、そのままキスを続けていた。
春樹が自宅に戻ると、由乃が浴衣姿で畳に倒れていた。
「どうしたんだよ?」
どこか具合でも悪いのかと気遣いながらも、春樹はぶっきらぼうだった。
「頭痛いから薬買って来てくれないか」
なんとか上体を起こしていう由乃。
「日曜なのに薬局なんか開いてないだろ」
「ドラッグストアやってないのかね」
「まだ8時なのにそんなのやってないって」
「後でいいから勝って来ておくれよ」
春樹は由乃を布団に寝かせ自分の部屋に行くとビールを飲んだ。そして携帯で撮った画像をパソコンに転送した。モニターには潤のあられもない肢体が映り、それをにやけながら見てはビールを飲んだ。そうして時間をつぶし10時前にドラッグストアに行き頭痛薬を買って来た。それを由乃の部屋に持って行ったが彼女からの返事がなかった。
春樹はもしかしたら由乃が脳梗塞になったのかと思い、救急車を呼んだ。
由紀は春樹が真面目にトレーニングしてるか電話をかけると、彼の母親が脳血栓で入院したことを知らされた。幸いにも症状は軽いものの、山どころではないといった感じだった。
春樹に兄弟はなく、母の看病を自分でしなければならないと思うと先が思いやられた。それに就職したばかりで仕事を休むのは気が引けた。
「春樹。お母さんの妹の美咲知ってるだろう」
「知ってるけど、あの叔母さんがなんだよ」
「美咲に電話して、来るようにいっておくれ」
春樹がしぶしぶ美咲に電話で事情を話すと、彼は散々小言をいわれた。だが、そのおかげで看病からは解放されそうだった。
由乃の血栓は薬で徐々に溶かされていったが、退院にはまだ日にちがかかりそうだった。
春樹は1日おきに病室を訪ねるものの、由乃とこれといった話もあまりせずに帰ることが多かった。
「男っていうのは何でああ無愛想なのかしらね。私に挨拶のひとつもしないし」
「済まないね。美咲には迷惑ばかりかけて」
「うーん。姉さんに文句いうつもりなんてないのよ。でも、春樹のああいうのが許せないだけ」
「あれだって、好きでああなった訳じゃないのよ。昔は素直だったの、あんただって知ってるでしょう」
高校進学で春樹の人生は変わったようだ。
その原因は春樹自身が何もいわないので、母親である由乃さえも本当のところは知らない。ただ、別れた夫が勧める進学校に無理やり入れられたのが嫌だったことをそれとなく感じていた。その証拠に半年も待たずに、春樹は自主退学してしまった。それでも夫が高校にも行かないでどうするんだと毎日叱責し、それで彼は翌年違うところに進学したが、それも2年で退学になってしまった。
高卒の夫は学歴コンプレックスが強かったのか、春樹には一流の高校大学に行ってほしかったようだが、息子の春樹はそれを頑として受け付けなかった。
春樹は小さいころから絵心があり、本当は美術系の学校に行きたかった。
それが絵なんかで人生やって行けるかという、にべもない言葉に猛反発した。それでも高校に行かなければ美大に入れないとなれば、しかたなく進学校に入学したが、明けても暮れても偏差値がどうのこうのという教師や同級生に我慢できなかった。そして、同級の女性と問題を起こして退学になってしまった。
春樹が潤の電話で駆けつけた先はイラストの展示会場だった。
「凄いなー」
「サークルの仲間でお金出し合ってさ、1年に1回はやってるんだ」
前衛的なものからアニメ系までいろんな作品があるが、春樹が好きなのはイラストというより実写に近い精密画だった。
「いつになるか分からないけど、俺も描いてみるかな、久しぶりに」
「描きなよ。描いたら見せて」
「潤のヌードでも描くか?」
「やーだ」
2人は展示会場を出てホテルのレストランに行った。
「最近チャットに来てないけど、何やってんの?」
「お袋が入院してて見舞いに行ったりとか、時間ないんだ。今日はたまたま休みになったけど」
「大変じゃない。あたしが夕飯つくりに行こうか?」
「いやー。家に女連れ込んだなんて近所に知れたら、お袋が入院してるっていうのに何考えてるんだっていわれるのが落ちだし」
「そうか・・・。じゃ、この後にいいことしようね」
意味ありげに含み笑いする潤の顔はハーフのように彫が深くて小さい。
胸元が大きく開いたティーシャツを盛り上げているバストはボリュームがあり、誰もが彼女とすれ違いざまに目をやるほどだ。
そんな潤の身体をこれから抱くのかと思うと、それだけで春樹の男心は燃え上がってきた。
ランチタイムが終わるということでウエィトレスがラストオーダーを聞きに来た。
「あたしはもうお腹いっぱい」
「水割り。それとダブルルームひとつね」
「は?」
「ダブルだよ」
「水割りのダブルですね」
「水割りはシングルで、部屋がダブル」
ようやく洒落の分かったウエィトレスは春樹を見ながらいった。
「ここではそのようなご注文はお受けできませんので、フロントへ行っていただけますか。水割りのシングルおひとつでよろしいですね」
「はい。それでいいです」
潤が春樹の代わりにいった。
「やーね。あの人、これからあたしたちがエッチするんだっていう顔で見てたじゃない」
「しないの?」
「してよー」
春樹はベッドで高校時代のことを振り返りながら潤に話している。
「俺、高校の3年間で何やってんだろうって、最近よく思うんだ」
「どうして?」
「友達もできなかったし、2回も中退して馬っ鹿じゃなかろうかってね」
「卒業しなかったの?」
「当然。好きでもないこと勉強してもしょうがないだろ。でも、2回目の高校のときは結構のんびりしてて面白かったな。私立の全寮制だったけど、とんでもない田舎でさ。近くに山や川があったりで、ちょっと可愛い子と授業抜け出して土手で寝転んだりしたりね」
「いけないんだ。不良じゃん」
「不順異性交遊っていうんじゃないか」
「やっちゃったの?その子と」
「やったね。それで退学になったし。親父には勘当だっていわれて参ったよ」
「悪い子だ」
「何いってんだよ。あんな気持ちのいいことして、どこが悪いんだよ。でも、あれで俺の人生変わったなーって、今思うんだ。退学してから絵も描く気になれなくて、仕事もしないでぶらぶらするしきゃなくて。それが元で親は離婚したし」
「そうなんだ・・・」
「お袋にしてみたら慰謝料も貰わないで、俺のこと面倒見ながら働きに出て大変だろうなって思ったよ」
そんなことを潤にいいながら、このところの春樹は由乃の見舞いも疎かにしていた。
「あれから、お袋に迷惑かけっぱなしなんだ。でも、最低でも高卒じゃないとまともな仕事に就けなかった。それなら職人で稼ごうって思ったんだ。でも、でっかい現場で朝早くから朝礼やったりとかって、俺の柄じゃなくてさ。そこらの家の塗り替えとかしたくて、あっちこっちのペンキ屋行ったよ」
最近の一般住宅は新建材が多用され、ペンキ屋の仕事が減っている。さらに悪質な業者が横行し、春樹が行っていたペンキ屋はことごとく暇になっていった。
その結果、春樹は1ヶ月のうち半月は仕事に行かないということが多かった。そういう悪循環で彼は次第に仕事をする気になれなくなり、朝から酒を飲むようになった。それでも、去年は塗装技能士1級の資格を取っていた。
そんなことを、春樹は潤の乳首を玩びながら話した。
「大変なんだねー」
「遊んでないで仕事に行けって、よくいわれたよ」
「お母さんから?」
「いや。家に電話かかってくるけど、お袋がいないから俺が出るだろ。そうすると親戚の叔母さんとか親父とかがね」
「そうか・・・。大人なんだからそんなこと分かりそうなのにね」
「分かってても、親父がいないのに、お前が母親を働かして自分は遊んでてどうすんだって。そういわれりゃ確かだけど・・・。皆、俺が悪いんだって思ってるんだろ。だから、そういう奴らの顔も見たくないし、話もしないな」
「だったら、これからは仕事のあるところに行けばいいじゃん」
「今はなんとかあるけど・・・」
先のことなど考えたくなかった。
今はそれより、目の前にいる潤という女にのめりこんでいたい春樹だった。
外はしとしと雨が降り出しているようだった。
桜も今夜が見納めかもしれない激しい降り方に変わったのは、春樹と潤がホテルを出た直後だった。
3 逃げた山の女神の行方
由乃は後遺症もなく普段の生活に戻ることができた。
病院にいる時はいろんなことを思い悩んでいたが、仕事をし始めるとそんなことでくよくよする暇もなかった。
「よかったねー。村井さんがいないと、私たちも淋しくて」
「有難うございます。休んだ分取り戻さないと」
「無理しないでいいのよ。仕事は私たちがやるから、適当にやってくれればいいの。管理人さんが村井さんがいるだけでいいっていってくれてるし」
由乃は負けず嫌いで男勝りの性分だった。それは仕事だけでなくあらゆる面で現れるが、普段は周りの人間と強調している。
休日には仕事仲間と昼食を食べに行くことも、お互いの家に行き来することもある。誰かが具合が悪いと聞けば、仕事帰りに見舞いに行ったりする人情家でもあった。
そういう由乃だったから、彼女が倒れたときは毎日のように見舞い客が来た。
その1人が目の前で茶を淹れている瀧子という同僚だった。
「今日は2人だけの快気祝いよ」
瀧子は皆が帰った後そういった。
「それはどうも」
2人は瀧子がたまに行く店に入った。
すべてが個室の懐石料理屋で、小さなせせらぎを石畳で渡り三和土に上がってから部屋に入るようになっていた。雪見障子を開ければ書院造のような部屋で、海霧に煙る小島の掛け軸は五月雨の雰囲気を醸し出している。漆黒のようなテーブルは螺鈿が施してある。それに見劣りしない刺繍をあしらった座椅子と脇息。
「瀧子さん。こんなお店によく来るの?」
由乃は夫と何回かこういう懐石料理屋に行ったことはあるが、別れてからというものは外食といえばファミリーレストランぐらいのものだった。
「たまにですよ。こういうところで贅沢するより、私は温泉のが好きだし。でも、今日は村井さんとゆっくり話したいと思って」
出される料理は見栄えも味もすこぶるつきのものばかりで、枝豆の冷静スープは甘みの中にもさっぱりした味わい。アイナメとキスに時鮭の刺身は口にしたことのない美味さだし、新じゃがとアスパラガスは旬の味わい深いものだ。金目鯛はバターでソテーしてるがかりっとした触感はさっぱりとした口当たりで、単なる塩焼きや煮付けでは味わえないものだった。そういった料理の最後は枇杷のデザートで締めくくられた。
「こんなに美味しく食事したことあったかしら」
夫と別れてからの由乃は働きづめで、食事といえばあり合わせのもので済ますのが常だった。
「ご馳走様。それより、何か話があるんじゃない」
「実はね、私宝くじ当たったのよ。それも、4億円」
由乃は信じられないといった顔で、茶をすする瀧子を見た。
瀧子はなんでもないといった感じで湯飲みを置き、煙草を吸い出した。
「こんなこと話すのは村井さんだけで、夫にもいってないのよ」
「それなのに、どうして私に?」
瀧子はタクシー運転手の夫の浮気癖のことを、しょっちゅう由乃に愚痴をこぼしていた。
由乃の夫は浮気こそしなかったが暴力を振るうことが度々あったし、そういうことで夫に恵まれなかったのは瀧子と共通していた。それで彼女の話を、自分のことのように親身になって聞いてやったことが多々あった。
「あの人は60だっていうのに、娘よりも若い女に入れあげて生活費もまともにくれないからこうしてパートの仕事してるんだけど、もう、これからはゆっくりしたいの。離婚するっていってやったわ。でも、宝くじに当たったことはいってないのね。それで、これは村井さんが買ったってことにしてほしいの。別れるときにごたごたするから」
瀧子は離婚間際に買った宝くじの賞金を夫と折半にしなければならないことを見越し、由乃にそういうのだった。
由乃は瀧子の夫に何回か会ったことがあるが、いかにも女癖の悪そうな感じを持っていたこともあり、彼女の申し出を受け入れることにした。
「いいわ。でも、仕事をやめてどうするの?何もしないで遊んでるっていうのも、辛くない?」
「そこなんだけど、村井さんと温泉めぐりしたいのよ。それでブログなんかやったりすれば、結構楽しくて時間のたつのもあっという間だと思うし」
ブログがどんなものか。パソコンをまったく知らない由乃に、ノートパソコンを見せながら詳しく説明する瀧子だった。それには由乃も目を丸くして驚くばかりだった。
「凄いわねー」
「でしょう。村井さんも何かやればいいのよ。ブログは面白いし、木瓜防止にもなるし」
「私は瀧子さんみたいに器用じゃないし」
瀧子は由乃よりひとまわり下でまだ時代の流れに乗れるが、由乃にしたらパソコンなどは無用の長物だと思っている。見ず知らずの相手とメール交換など、不気味だとさえ感じているのだ。
「とにかく、温泉に付き合ってほしいのよ」
「そういわれても、私はこの仕事を辞める気はないし・・・」
身体を動かさずにじっとしていられる性分ではないし、ましてや他人の金で遊ぶなどということは、由乃にはできかねることだった。それに、春樹の仕事も順調で、以前のように仕事を投げ出す様子もなさそうなので、これといった不満もなかった。
「じゃ、来週は?新緑のいいところがあるのよ。そこは1人じゃ泊まれないし、なんとかお願い」
瀧子の哀願するような誘いにしかたなく付き合うことを約束したが、食事代は割り勘で払う由乃だった。
春樹は仕事を終えるといつものようにジョギングで帰宅する。
贅肉の落ちた身体は引き締まり、手足には血管が浮き上がるほど筋肉もついてきた。それはジョギングだけでなく腹筋や腕立て伏せなどもしているからで、食事も美味く感じるようになっていた。酒をひかえているのが何よりなのだろう。
その筋肉質の身体で潤の華奢な身体を責めるように抱き、彼女を快楽の底に何度も落とした。
そして今は、登山道の片隅で由紀と一緒に奥多摩湖を見下ろしていた。
「これから徐々に勾配を稼ぐようになるの」
ジョギングをやっているせいか、肺活量も上がってきている春樹の動悸は乱れてはいない。景色を眺める余裕もあるし、街で見る時とは違う由紀の姿に惚れ直している。
彼は、汗でうっすらと透けてる由紀の胸を舐めまわすように見ているのだ。
「煙草がうめー」
振り返った由紀に気取られまいと、大袈裟にいった。
「息切れするわよ」
「減っちゃ羅だね」
初めての登山とは思えない軽やかな足取りで七つ石山迄難なくついてくる春樹に、これなら2時には雲取に着くと思う由紀だった。
「あそこが頂上よ」
そういわれた春樹はゆるい登り坂を駆け上がって行った。
その後姿は、獣が獲物をを見つけて走って行くように見えた。
由紀は走りこそしなかったが急ぎ足で春樹の後を追った。
「子供みたいね」
「ちぇっ。浅間は見えんのに北は駄目だな」
「この時期だとヘイズが出る前じゃないと、北アルプスは無理かもね」
「ヘイズって?」
「大気中の塵。それが遠くのものを見にくくさせるの」
「いろんなこと知ってるねー」
由紀は避難小屋でザックの荷物を整理すると外で料理を始めた。
「あなたは何を持ってきたの?」
「レトルトとフリーズドライ。あとはビールとつまみ」
一泊の山行ならそれで十分だろう。
由紀は冷麦をつくり、ビールを飲んでいる春樹に振舞った。
「ぬるいけど、うめー」
「山で水は貴重だから、おうちでつくるようにふんだんに水は使えないからね。でも、これぐらいなら上等よね」
「上等上等上等」
春樹は意味もなく繰り返していう。
遅い昼食を終えても、夜になる迄はかなりの時間があった。
その間春樹は何かと由紀に話しかけるが、彼女は汚い言葉遣いをする彼を鬱陶しく思い、あまり話す気になれなかった。
避難小屋にいる登山者は、場違いな奴が闖入してるといった目で、そんな春樹には冷ややかだった。
「他の人もいるんだし、少しは静かにしたら」
「つめてーなー」
夕食を終えると星を見に小屋を出る者が多い。
由紀はビールを飲んでいる春樹に声をかけることもなく、1人で外に行った。
空には満天の星が輝き、手に取れる近さに見えた。
春樹という男と一緒でなければロマンチックな星空だと感じただろうが、今はそう思えない。何であんな人間と山に来たのかという後悔のが強いからだ。
いきがかり上声をかけて具合の悪い彼を介抱した。癌だというので見舞いにも行った。そして槍ヶ岳に登りたいというから、それならためしに雲取に行ってみようとなった。
電車の中では足を投げ出したり、大声で話しかけてきた。挙句に携帯電話ではげらげら笑いながら会話もしていた。山小屋でも彼のその非常識さは遺憾なく発揮され、抱き合って寝ようと、周りに聞こえるようにいってきた。
そんな春樹とは1秒たりとも一緒にいる気になれない由紀は小屋に戻ると、寝ている彼に気付かれないように荷物をまとめた。皆に一礼をして外に出た。
翌朝起きた春樹は由紀のいないことに気付いた。
由紀のザックがないことを知ると置き去りにされたと分かり、彼女に携帯電話をかけるが圏外で通じなかった。そんな春気は飯を食うどころかビール片手に外に出た。
「これが御来光って奴か」
5月下旬だが山の朝は夏のように早い。
雲海から顔を出した朝日はあっという間に高く昇って行く。それと同時に闇から赤く色づいたかと思うとどんどん変化していき、いいようのないドラマティックなものだった。
「これが山の魅力って奴か」
春樹はビールをぐいっとひと飲みすると、短くなった煙草を足で踏み躙った。
「あんた、山は初めてかい?」
初老の男はもみくちゃになった煙草を拾い上げ、それを春樹に受け取らせながらいった。
「それが」
「山はどうだい?いいかい?」
「まーね」
「そうかい。それはよかった。彼女は逃げても、山は逃げないからな」
春樹はむっとし、受け取った吸殻を再び投げ捨てた。
由紀は雲取山荘で泊まろうかと思ったが、星空の下を飛龍山に向けて歩き通した。日が昇り始めた時は笠取山で、絵に描いたような富士山が見える。その富士山を見ながら広瀬湖畔の民宿に向かった。
顔馴染みの由紀を見た女将は風呂を沸かして彼女を歓待した。
「温くなかった?」
「ちょうどよかったです」
「それはそれは。さ、どうぞ」
「ビール飲みたいんです。そのあと少し寝てもいいですか?」
「ゆっくりしていけばいいわよ」
女将は酒肴に山菜とハムサラダに鱒の塩焼きを出した。
「美味しい。何かもやもやしてたのがいっきに吹っ切れました」
「何があったか知らないけど、人生色々あるわね・・・」
女将は微笑むようにいった。
「そういえば、こないだめずらしく梶山さんが見えたわよ」
一瞬間をおいて、由紀はグラスを傾けた。
「何かいってました?」
「由紀さん来る?って聞いてたわ。連絡してあげたら」
由紀はそれには返事をせず、ビールをもう一本といった。
梶山三郎は由紀の恋人だった。
お互い山が好きでいずれは結婚するはずだったが、今は疎遠になっている。
その梶山とは広瀬ダム奥の東沢渓谷でアイスクライミングをしたり、甲武信岳に登ったりした際、2人はこの民宿を足場にしていたのだ。
「梶山さん。あなたと一緒になりたいって」
女将にそう聞かされても、由紀にはどうすることもできない。彼が目の前にいたなら、思いっきり抱きついたかも知れないのだが・・・。
「人生って、誰かがそばにいないと面白くないわよ」
32歳の由紀はこのさきも山にすべてをかけようとは思ってもいないが、かといって結婚する気もあまりなかった。思い立ったときに好きな山に行ける今の環境のままで、もう少しいたいと思っているのだ。
だがキャバクラやスナックでのアルバイトをするにも年齢的な限界だと気付いていたし、派遣での高収入だっていつまで続くか保証はなかった。
そういう意味で結婚は、いい逃げ場とも思えた。
梶山と別れてから2年間。
最近の由紀はそういうふうに考えていた。
好きな山には登れるが、何か満たされないものが常にあった。それが梶山の存在だということはいうまでもないが、1人でいる身軽さと秤にかけると、結婚には踏み切れないでいた。
4 それぞれの夏
山から下りた春樹はノートパソコンを持参して、潤に撮影した山の写真を見せていた。
潤は春樹のブログの投稿記事をまじまじと見ている。
そんな彼女の背後から乳房をもみしだく春樹。
「もぅ。おいたしないの」
「そんなこというと、他の女のところに行っちゃうぞ」
相変わらず強引な春樹は潤のタンクトップを乱暴に脱がし、ブラジャーをまくりあげた。潤の小さな乳首を舐めながら、何故か由紀の顔を思い出す春樹だった。
潤にとっての春樹は金離れのいい年上の男で、子供っぽいところが憎めないセックスフレンドでもあった。内面的に好きになれるかと聞かれれば、なんともいえないのが本音だ。ただ、一緒にいて退屈しないし、何か新しいことを彼から発見できるのが、唯一付き合ってる理由かも知れない。
「ブログ、だいぶ前からやってるんだね」
「暇なときにちょっとやりだしたら、俺みたいなのが結構見に来てくれるしな」
春樹のブログの記事内容は世間に対する不平不満をだらだらつづっているのがほとんどだが、それに共感する者が多いのか、コメントがかなり寄せられている。どれもが2チャンネルなどの掲示板でよく見受けられる意味不明な絵文字を多用し、まともな文法など無視したものだった。
それでも春樹はアクセスが増えるに連れ、多い日には3回も投稿したり、彼自身そんなコメントに励まされているようだった。
特に今回は山へ行ってきたことで、手軽な山でバーベキューのオフ会をやろうといった希望が寄せられていた。
春樹はそんなことを話しながらも、手は潤の身体を熱くさせていた。
「ねー。電気消して」
「俺は暗いの駄目だ。怖くて。寝るときでも電気消さないし」
「おかしいの」
「俺は、どうせおかしなやつさ」
由乃は土日だけでなく月曜も休みを取るようにした。
春樹が入れてくれる金は毎月違うがそれでも最低10万以上だし、多い時は20万ちかいときもある。都営住宅で家賃は3万円ほどだし、食費といっても春樹の弁当の惣菜ぐらいで、由乃の収入だけでほとんどカバーできた。
由乃が休みを増やしたのは瀧子と温泉に付き合うこともあったが、それは月に1回ぐらいだった。あとは自分の体を養生させることが多かった。
70歳を目前にした由乃にとって、炎天下の庭掃除や階段のモップがけは厳しいものだった。
そしてもうひとつの理由として、自分史をブログとして発信したことがある。
パソコンの取り扱いやブログについては瀧子にひととおり教えてもらった。ノートパソコンは瀧子が使っていたお古をもらいそれを利用している。
「随分慣れたみたいね」
「瀧子さんのおかげだわ。有難うね」
「こんなことでお礼なんていわなくてもいいわよ。私なんて村井さんにはもっと大きいこと頼んだんだし。だから、こんなマンションにも住めたし」
瀧子は離婚が成立した時慰謝料として300万円を手にし、さらには毎月5万円の生活費を得ることになっていた。その上ロトで当てた4億円という莫大な賞金があるので、何の不自由もなかった。ただ、そういった金や暇はいくらあっても、満足感を味わえないことはある。
「お金があっても、淋しいものね」
「そうね・・・。ないのは困るけど、淋しいぐらいならなんとか我慢できるじゃない。瀧子さんは温泉が好きなんだから、あっちこっち行って羽を伸ばせるでしょう」
確かにそうだが、目的地へ行く新幹線や飛行機に1人で乗ってるときの退屈さといったら、惨めだとさえ感じることがある。ましてや宿で1人食事する時の味気なさといったら、寂寞感に苛まれてしょうがなかった。
「ねー。村井さん。1億あげるから、それで私と旅行して下さいよ」
「あらあら。何を馬鹿なこといいだすのよ。お金は大事にしないと。いくら宝くじで当てたからといって粗末にすると、罰があたるわよ」
「意地悪いわないで。本当に淋しくて、どうにかなりそうなのよ」
瀧子には兄がいたがすでに亡くなり、肉親は娘ひとりだけだったがその仲はあまりいいものではなかった。夫とも別れた今、何でも話せる村井由乃は格好の友人なのだ。
「また働けばいいじゃない。そうすれば暇を玩ぶこともないし、汗を流してこその温泉は最高だと思うわよ」
由乃の言い分はもっともだが、いまさら働くことなど毛頭ない瀧子だった。
「あなたはまだ60にもなってないし、まだこれから20年以上生きるのよ。今のまま何もしないでいると足腰も弱って動けなくなるし、せめて散歩ぐらいしたほうがいいわ」
「そうね。じゃ、これから歩いてこないだの懐石でも食べに行きますか」
あまり無碍にもできず、由乃は付き合うことにした。ブログのやり方がわからずに聞きに来たが、せっかくの休日を瀧子のために費やしてしまった。
自分が彼女の立場だったら、どうなるんだろうと考えさせられる1日でもあった。
潤は就職活動で大学のOBがいる会社訪問や就職説明会で忙しく、春樹の誘いを断ることが多くなっていた。たまに時間ができれば友人と飲みに行くこともあるが、だいたい9時前には帰宅していた。
「どう?決まりそうなところあるの?」
「あたしさー。センスないのかも」
潤はアニメ製作会社を主に希望しているが、競争率が激しい上勤務条件もよくない。そういうことで一般企業にも顔を出しているが、反応はあまり芳しくなかった。
「お母さんはどんな会社にいたの?」
「お母さんは普通の事務よ。残業もほとんどなくて、お給料もそこそこで楽だったわ。潤みたいに自分の好きなことを仕事にするのって、夢が叶うかもしれないけど。叶わないときは何をしてるんだろうって考えちゃうんじゃない?そういうふうになるの、お母さんは嫌だったから一般事務を選んだのよ」
「そっかー。イラストたって、あたしぐらいのスキルじゃ使いもんにならんねー」
「あなたの夢をあきらめないでって歌もあるし、頑張ってみれば。お母さんたちとは時代も違うんだから」
短大とか専門学校でイラストを専攻ではなく、美大のデザイン科というのがネックになっていた。あくまでデザインの一環としてイラストを描くだけだろうというのが、企業側が潤を採用しない最大の理由だった。それならデザインを活かせる企業があるかといえば、潤自身が悟っているように、彼女のセンスが通用するところはなさそうだった。
「あたし、ペンキ屋と結婚でもしちゃおうかな」
「やめてよ。ペンキ屋なんて柄の悪い人と付き合うのは」
「柄は悪いけど、面白いんだー。絵を描くかと思えば写真を撮ったり。こないだなんか槍ヶ岳っていう山に登ってきたって自慢してたよ。3000m以上あんだって。あたしなんて、箱根の金太郎山しか登ったことないし」
「山なんて登らなくていいの。女の子なんだから」
「汗かいてひーひーいいながら登った頂上で飲むビールは、冷えてなくても最高だっていってたよ。このビールは冷えてても美味しいって感じないしね」
冷房の利いたリビングのソファーで足を投げ出している潤。風呂上りだがビールが美味いと感じないのは、就職活動がうまくいってないせいなのかも知れない。
春樹に思いっきり抱かれ汗まみれになった後に飲む、ビールの爽快感を懐かしく思う潤だった。
槍ヶ岳に1人で登った自信が春樹をさらに山へ惹きつけているようで、彼は沢登りにも行くようになった。奥多摩の大常木沢で味をしめると、東沢渓谷から甲武信岳の登攀も難なくこなした。身体が身軽なのかも知れない。
春樹は今までのブログを閉鎖し、新たに「マウントハイカー」という山のブログを立ち上げた。
山行の様子を詳細に綴ったもので、写真も大きめのものを挿入した。根が器用なのか、画像処理用のソフトで綺麗に仕上げた写真にコメントがちらほら寄せられている。
暇つぶしでやっていたおちゃらけのブログとは違う。ましてや山を対象にしているので、訪問者のコメントは真面目な内容がほとんどだった。コメントするにも気遣う春樹だった。
由乃は相変わらず瀧子にせっつかれているが、自分のペースを乱さない程度に付き合っていた。
盆休みには、湯治をかねて東北の温泉に行ってきた。
山深い宿は盆休みだというのに日帰りの地元客だけで混雑することもなく、由乃は瀧子と起きては食べ、温泉に入っては休むという長閑な日々を満喫してきた。
70歳になっても働くというのは普通の主婦では少ないのかどうか?
そんなことは由乃にはどうでもよく、働けるうちは働くのだという気概をブログに投稿していた。
2DKの薄暗い都営住宅の間取りの中で、春樹と由乃がそれぞれキーボードとマウスを操作するかすかな音以外には、古くなったエアコンが時たま唸るぐらいだった。
外ではコオロギの啼き音が響くが、2人には聞こえているだろうか・・・。
長田由紀は酔客の執拗な誘いにキレ、アルバイトを首になった。
それでも好きなことをやりたいという強い意志は、彼女をネオンの街に駆り出させた。紫煙が舞う中、馬鹿話に適当に合い槌を打つのは慣れているが、助平心丸出しの客には手を焼かされることしばしばだった。
32歳の夏は、由紀にとってあまりいいものでないまま終わりそうだった。
山から下りた春樹はノートパソコンを持参して、潤に撮影した山の写真を見せていた。
潤は春樹のブログの投稿記事をまじまじと見ている。
そんな彼女の背後から乳房をもみしだく春樹。
「もぅ。おいたしないの」
「そんなこというと、他の女のところに行っちゃうぞ」
相変わらず強引な春樹は潤のタンクトップを乱暴に脱がし、ブラジャーをまくりあげた。潤の小さな乳首を舐めながら、何故か由紀の顔を思い出す春樹だった。
潤にとっての春樹は金離れのいい年上の男で、子供っぽいところが憎めないセックスフレンドでもあった。内面的に好きになれるかと聞かれれば、なんともいえないのが本音だ。ただ、一緒にいて退屈しないし、何か新しいことを彼から発見できるのが、唯一付き合ってる理由かも知れない。
「ブログ、だいぶ前からやってるんだね」
「暇なときにちょっとやりだしたら、俺みたいなのが結構見に来てくれるしな」
春樹のブログの記事内容は世間に対する不平不満をだらだらつづっているのがほとんどだが、それに共感する者が多いのか、コメントがかなり寄せられている。どれもが2チャンネルなどの掲示板でよく見受けられる意味不明な絵文字を多用し、まともな文法など無視したものだった。
それでも春樹はアクセスが増えるに連れ、多い日には3回も投稿したり、彼自身そんなコメントに励まされているようだった。
特に今回は山へ行ってきたことで、手軽な山でバーベキューのオフ会をやろうといった希望が寄せられていた。
春樹はそんなことを話しながらも、手は潤の身体を熱くさせていた。
「ねー。電気消して」
「俺は暗いの駄目だ。怖くて。寝るときでも電気消さないし」
「おかしいの」
「俺は、どうせおかしなやつさ」
由乃は土日だけでなく月曜も休みを取るようにした。
春樹が入れてくれる金は毎月違うがそれでも最低10万以上だし、多い時は20万ちかいときもある。都営住宅で家賃は3万円ほどだし、食費といっても春樹の弁当の惣菜ぐらいで、由乃の収入だけでほとんどカバーできた。
由乃が休みを増やしたのは瀧子と温泉に付き合うこともあったが、それは月に1回ぐらいだった。あとは自分の体を養生させることが多かった。
70歳を目前にした由乃にとって、炎天下の庭掃除や階段のモップがけは厳しいものだった。
そしてもうひとつの理由として、自分史をブログとして発信したことがある。
パソコンの取り扱いやブログについては瀧子にひととおり教えてもらった。ノートパソコンは瀧子が使っていたお古をもらいそれを利用している。
「随分慣れたみたいね」
「瀧子さんのおかげだわ。有難うね」
「こんなことでお礼なんていわなくてもいいわよ。私なんて村井さんにはもっと大きいこと頼んだんだし。だから、こんなマンションにも住めたし」
瀧子は離婚が成立した時慰謝料として300万円を手にし、さらには毎月5万円の生活費を得ることになっていた。その上ロトで当てた4億円という莫大な賞金があるので、何の不自由もなかった。ただ、そういった金や暇はいくらあっても、満足感を味わえないことはある。
「お金があっても、淋しいものね」
「そうね・・・。ないのは困るけど、淋しいぐらいならなんとか我慢できるじゃない。瀧子さんは温泉が好きなんだから、あっちこっち行って羽を伸ばせるでしょう」
確かにそうだが、目的地へ行く新幹線や飛行機に1人で乗ってるときの退屈さといったら、惨めだとさえ感じることがある。ましてや宿で1人食事する時の味気なさといったら、寂寞感に苛まれてしょうがなかった。
「ねー。村井さん。1億あげるから、それで私と旅行して下さいよ」
「あらあら。何を馬鹿なこといいだすのよ。お金は大事にしないと。いくら宝くじで当てたからといって粗末にすると、罰があたるわよ」
「意地悪いわないで。本当に淋しくて、どうにかなりそうなのよ」
瀧子には兄がいたがすでに亡くなり、肉親は娘ひとりだけだったがその仲はあまりいいものではなかった。夫とも別れた今、何でも話せる村井由乃は格好の友人なのだ。
「また働けばいいじゃない。そうすれば暇を玩ぶこともないし、汗を流してこその温泉は最高だと思うわよ」
由乃の言い分はもっともだが、いまさら働くことなど毛頭ない瀧子だった。
「あなたはまだ60にもなってないし、まだこれから20年以上生きるのよ。今のまま何もしないでいると足腰も弱って動けなくなるし、せめて散歩ぐらいしたほうがいいわ」
「そうね。じゃ、これから歩いてこないだの懐石でも食べに行きますか」
あまり無碍にもできず、由乃は付き合うことにした。ブログのやり方がわからずに聞きに来たが、せっかくの休日を瀧子のために費やしてしまった。
自分が彼女の立場だったら、どうなるんだろうと考えさせられる1日でもあった。
潤は就職活動で大学のOBがいる会社訪問や就職説明会で忙しく、春樹の誘いを断ることが多くなっていた。たまに時間ができれば友人と飲みに行くこともあるが、だいたい9時前には帰宅していた。
「どう?決まりそうなところあるの?」
「あたしさー。センスないのかも」
潤はアニメ製作会社を主に希望しているが、競争率が激しい上勤務条件もよくない。そういうことで一般企業にも顔を出しているが、反応はあまり芳しくなかった。
「お母さんはどんな会社にいたの?」
「お母さんは普通の事務よ。残業もほとんどなくて、お給料もそこそこで楽だったわ。潤みたいに自分の好きなことを仕事にするのって、夢が叶うかもしれないけど。叶わないときは何をしてるんだろうって考えちゃうんじゃない?そういうふうになるの、お母さんは嫌だったから一般事務を選んだのよ」
「そっかー。イラストたって、あたしぐらいのスキルじゃ使いもんにならんねー」
「あなたの夢をあきらめないでって歌もあるし、頑張ってみれば。お母さんたちとは時代も違うんだから」
短大とか専門学校でイラストを専攻ではなく、美大のデザイン科というのがネックになっていた。あくまでデザインの一環としてイラストを描くだけだろうというのが、企業側が潤を採用しない最大の理由だった。それならデザインを活かせる企業があるかといえば、潤自身が悟っているように、彼女のセンスが通用するところはなさそうだった。
「あたし、ペンキ屋と結婚でもしちゃおうかな」
「やめてよ。ペンキ屋なんて柄の悪い人と付き合うのは」
「柄は悪いけど、面白いんだー。絵を描くかと思えば写真を撮ったり。こないだなんか槍ヶ岳っていう山に登ってきたって自慢してたよ。3000m以上あんだって。あたしなんて、箱根の金太郎山しか登ったことないし」
「山なんて登らなくていいの。女の子なんだから」
「汗かいてひーひーいいながら登った頂上で飲むビールは、冷えてなくても最高だっていってたよ。このビールは冷えてても美味しいって感じないしね」
冷房の利いたリビングのソファーで足を投げ出している潤。風呂上りだがビールが美味いと感じないのは、就職活動がうまくいってないせいなのかも知れない。
春樹に思いっきり抱かれ汗まみれになった後に飲む、ビールの爽快感を懐かしく思う潤だった。
槍ヶ岳に1人で登った自信が春樹をさらに山へ惹きつけているようで、彼は沢登りにも行くようになった。奥多摩の大常木沢で味をしめると、東沢渓谷から甲武信岳の登攀も難なくこなした。身体が身軽なのかも知れない。
春樹は今までのブログを閉鎖し、新たに「マウントハイカー」という山のブログを立ち上げた。
山行の様子を詳細に綴ったもので、写真も大きめのものを挿入した。根が器用なのか、画像処理用のソフトで綺麗に仕上げた写真にコメントがちらほら寄せられている。
暇つぶしでやっていたおちゃらけのブログとは違う。ましてや山を対象にしているので、訪問者のコメントは真面目な内容がほとんどだった。コメントするにも気遣う春樹だった。
由乃は相変わらず瀧子にせっつかれているが、自分のペースを乱さない程度に付き合っていた。
盆休みには、湯治をかねて東北の温泉に行ってきた。
山深い宿は盆休みだというのに日帰りの地元客だけで混雑することもなく、由乃は瀧子と起きては食べ、温泉に入っては休むという長閑な日々を満喫してきた。
70歳になっても働くというのは普通の主婦では少ないのかどうか?
そんなことは由乃にはどうでもよく、働けるうちは働くのだという気概をブログに投稿していた。
2DKの薄暗い都営住宅の間取りの中で、春樹と由乃がそれぞれキーボードとマウスを操作するかすかな音以外には、古くなったエアコンが時たま唸るぐらいだった。
外ではコオロギの啼き音が響くが、2人には聞こえているだろうか・・・。
長田由紀は酔客の執拗な誘いにキレ、アルバイトを首になった。
それでも好きなことをやりたいという強い意志は、彼女をネオンの街に駆り出させた。紫煙が舞う中、馬鹿話に適当に合い槌を打つのは慣れているが、助平心丸出しの客には手を焼かされることしばしばだった。
32歳の夏は、由紀にとってあまりいいものでないまま終わりそうだった。
5 目覚め
盆休みなのにあんなに空いてる温泉宿を見つけた。それも格安だったと由乃に褒められた瀧子は、それをヒントに湯治場専門のサイトを主宰することにした。
これまでブログで知り合った各地の仲間から情報を仕入れるだけでは物足りず、自分でも実際に足を運んで詳細を調べた。そういう目的ができると、寂寞感などまったくなかったし、毎日がスケジュールに追われあっという間に時間が過ぎていく。
これでは時間が足りないとばかりにスタッフの募集もした。5人は年齢もまちまちだし男女入り交ざっているが、瀧子の思い通りに動いてくれた。月給は15万円だが、好きな人間には金額の多寡ではないのだろう。瀧子の想像以上の情報を次から次へと集めてくれた。
「村井さん。仕事として頼みたいんだけど、是非、うちで働いて欲しいんです」
「私にできることなんてないわよ」
「うぅん。村井さんが生きてきたことが、ここでは必要なの」
瀧子は温泉に行くことの必要性を考えていた。
彼女は夫の浮気の腹いせで、温泉に入って美味しい物を食べたいということがきっかけだった。若い女性たちが温泉に行くにしても、食べ物目当てや疲れた体を癒したいということだろう。だが、主婦となるとそうそう温泉に行く機会は少ない。しかも、50代以上だとツアーでは行っても、個人で行くのは盆や正月など連休ぐらいなものだろう。
そういった意味で、70歳になった由乃が温泉に行ったときの感想は貴重な資料になる。そういうことを瀧子は由乃に言い聞かせた。
「瀧子さん。あなたが私を慕ってくれるのは本当に有難いよ。その関係を続けたいなら、今のままにしておいて欲しいの。私は月に1回行くかどうか。それだけで満足してるの。温泉なんて、私にしたら凄く贅沢なもんなのよ。離婚した当時は食うや食わずのその日暮らしみたいなこともあったの。だから、今は本当に幸せよ。あなたは目的を見つけた。私はそれを陰で見守る。それでいいじゃない。私なんかより、もっとほかにいい人いるだろうし」
由乃は素直な気持ちをいうが、瀧子は解せなかった。
「私のこと嫌いなのかな・・・」
「何いってるの。私はただ、自分の道を行きたいだけよ。あなたが何かと目をかけてくれるのは有難いと思ってるの。それだけは分かってね」
由乃は自宅を7時に出て満員電車に揺られる。
仕事先のマンションは50世帯ほどで、3人で廊下と階段のモップがけをする。それと庭掃除もある。秋から冬は落ち葉を掃き集めるのが大変だが、今では大きなドライヤーのようなブロアーという物があり、それも楽になった。あとは週2回のごみ出しだった。
春夏秋冬。毎日が決まりきったそんな仕事は昼には終え、1日3000円の日当だった。この10年間、1回もその賃金は上がってなかった。それでも由乃は愚痴ることなく、よほどのことがない限り休むこともなかった。
これが自分の人生なんだと達観していることもあるが、ほかにできる仕事もなかった。
自宅に戻れば洗濯をし、夕方になれば買い物に行く。夕飯を済ませば風呂に入り、1時間ほどブログの更新に費やす。
そんな毎日が由乃には有難いと感じている。それをじーっとパソコンと向かい合う毎日など、彼女には耐え難かった。
好きなことを仕事にしたいというのはいい。だが、由乃には好きなことなど何もなかった。瀧子と付き合う温泉にしても、それは昔馴染みのよしみであり、行ったら行ったで明日からまた頑張るんだという英気を養うものだった。
瀧子からは頻繁に連絡があったのに、仕事の依頼を断ってからはまったくなかった。それでも由乃は何も動じることはなかった。
春樹が仕事先で弁当を食べている時、老婆から漬物を振舞われた。
「どうも」
「暑いのに大変だね」
「慣れてるし」
「あたしゃこれから医者に行くんで、3時のお茶は玄関に置いときますよ」
「すいません」
親方が来ると、春樹は玄関にお茶の用意をしてあることを告げた。
「最近じゃお茶を出してくれるところも少なくなったのに、めずらしいな。お前の仕事っぷりがいいせいかもな」
「かもねー」
三村は入ってまだ間がない春樹のことをすっかり信用し、現場を任せっきりにしている。昔ながらの生地仕上げのステインやニスにしてもネタをだらすことなく綺麗だし、その上外壁のローラー塗りもできる。何をやらしてもそつなく仕事をこなすので重宝しているが、口のきき方がなってないのが難点といえばいえなくもなかった。
「お前はいくつだっけ?」
「29」
「そうか。仕事だけじゃなく、社会人としても磨きをかけとけよ」
そういわれても親方が何をいわんとしているか分からない春樹だった。
「あっ。親方。この現場終わったら少し間があくっていってたけど、どれぐらいですか?」
「何だ。休みたいのか?」
「まー、そんなところです」
「ずーっと休んでもいいんだぞ」
春樹は慌ててかぶりしながら続けた。
「4日だけ」
「ま、好きなようにしろ」
潤はようやく出版社から内定を受け、春樹からの温泉旅行の誘いに応じた。
「あのタンクあるだろ。あれ。今から10年ぐらい前に俺が塗ったんだ」
海沿いを走る車の中から、春樹が指差したのはかなり高いセメントサイロのタンクだった。
「へー。凄い。ビルの窓拭きやる人みたいにロープで下がったの?」
「あー。3月頃だったけど、毎日1回は雪が降ってな。地下足袋履いてたけど、足の指は氷そうだし、寒くてしょうがなかった」
まだ20歳ぐらいだった春樹は、約1か月間のその出張で40万円ほど手にした。その当時に彼がいた店の親父がいった、乞食とトロ屋は3日やったら辞められない、という言葉が今では懐かしく思い出され、それを潤にいった。
「トロ屋っていうのはペンキ屋のことだけどな」
「いいなー。40万円もあったら何に遣うか迷うね」
「俺はほとんど、ソープとキャバクラに遣ったけど」
「やーね。ソープなんか行くんだ?」
「昔は仕事の先輩がそういうの好きで、よく付き合いで行ったな。驕るから行こうっていうしな」
「ふーん。でも、ソープって、どんなことするの?」
「ま、それは今夜教えてやるよ」
春樹は含み笑いしながら潤の太股を軽く平手で叩いた。
佐渡を見ながら南下した車は小高い丘で止まった。
「ここに泊まるの?」
「あー」
純和風の宿は如何にも格調高い感じで、ラフなティーシャツにミニスカートの潤は気後れしている。ジーンズにスイングトップの春樹はそんなことは意に介さず、出迎えた従業員に村井だけどと告げた。
通された部屋は離れだった。掘り炬燵のある居間と寝室の二間続きに檜風呂まで備えてある。
「高かったでしょう?」
「女がそんなこと気にすんなよ」
「有難う。海は見えるし、いい旅館ね」
「夕飯は6時からだっていうし。その前にいっちょうやるか」
春樹はミニスカートに包まれた潤のヒップを、かきむしるように揉み始めた。
「少しはムード出してよ」
「贅沢いってらー」
夕食を満喫した春気は潤と一緒に風呂に浸かっている。
「青いお月様なんて初めて見る」
「お。本当だ。でも、山で見るほうがもっと綺麗だぞ。空だってもっと暗くて、星が煌めくっていうのはこういうのかって、よく分かるし」
「あたしも連れてってよ」
「行くか?でも、歩けるか?5時間とか6時間も」
「多分。あたしね、どうせなら富士山がいいな」
「富士山は無理だ。もうこの時期だと突風も吹くし嵐なんかきた日にゃ、お手上げだ。独立峰だからな」
春樹は暇があるとネットで山のことを色々調べているので、山についての造詣もかなり深くなっていた。
「2番目に高い北岳もいいけど、アプローチが長すぎる。潤が楽に登れて喜びそうなのは・・・あそこだな」
そういって潤の股間を掌でむんずとつかんだ。
「もー。エッチなんだから」
その翌日、宿泊先は決めていなかったが春樹は、急遽諏訪湖へ行こうと潤にいった。
柏崎から直江津まで海岸線を走ったが、その先は山間部を通り抜け諏訪湖に着いた。その車窓の移り変わりを潤は飽きずに見ていたが、車はかなり細い山道をぐいぐい登って行き、気がつけば場違いな広場に着いた。
「えー。何々。こんなところにたくさん車停まってるよ」
「蕎麦も食ったし、ここで腹ごなしだ」
春樹に手を引っ張られたり腰を押されたりしながら、潤は丘につけられた細い道を上がった。そこで彼女が目にしたのは遮るものが何もない山並みだった。
「わー。いつの間にか、こんな高いところに来てたんだー」
潤は辺り構わずに両手を大きく開き、ぐるっと一回りして広大な景色を眺めた。
「たった30分歩いただけで、こんだけの景色だぜ」
「最高」
「でもな、車なんかじゃなく、登山口から一歩一歩登って行くっていうのは、もっと感動するぞ」
「だよねー。ね、本当に行こうよ。あたし、ちゃんと身体鍛えるし」
富士山は勿論、北・中央・南アルプスに八ヶ岳の山々が大パノラマを展開していて、潤ならずともその光景に見とれるのは必死だろう。
「11月なら紅葉が綺麗だし、それまでに何とか山女に変身だ」
「山女ときたか・・・」
山の見晴らしにはまりそうな潤に、春樹は半年前の自分をだぶらせていた。
潤は毎朝欠かさずジョギングした。ストレッチングやヨガは以前からやっていたが、その時間も少し増やした。
「ずいぶん張り切ってるみたいだけど、どうしたの?」
「山に行くんだ」
「まさか、前いってたペンキやさんとじゃないでしょうね」
「いけない?」
「会ったことないから何ともいえないけど、好きなの?その人のこと」
「どうかな・・・。あまりそういうこと考えたことないからね。ただ、一緒にいると面白いし」
「あなた。あなたも何とかいってよ」
「山に行く男ならいいんじゃないか。いまどき出会い系サイトとかで女を漁るのが多いご時勢だっていうのに、見上げたもんじゃないか」
潤の母は夫に助け舟を出してもらうはずだったのが藪蛇になり、それ以上娘に反対できなかった。
春樹が潤のために選んだのは奥秩父の金峰山という山だった。
登山口の紅葉は盛りで白樺の葉はまっ黄色だった。
はじめのうちはそんな紅葉を見る余裕たっぷりの潤だったが、徐々に険しい登りになるにつれ、本格的な山が初めての彼女の息遣いが荒くなってきた。
「しっかりしろよ。頂上に着いたら、美味い飯つくってやっからな」
そういう春樹は潤の2倍はあろうかという大きなザックを背負っているが、たいした疲労もない様子で遅れて来る彼女を煙草を吸って待つことしばしばだった。
「まだー」
「もう少しだ」
「少しだ少しだっていって、ぜんぜん着かないじゃない」
「今度こそ本当に少しだぞ」
1時間前からずっと急坂を登っている潤の目に、大きな岩が目に入ってきた。それこそが金峰山頂上のシンボルである五丈岩だった。
「着いたの?」
「そうだよ」
春樹は誰もいない頂上で潤を抱きしめながらいった。
「やったー。登ったぞー」
抱きしめている春樹の腕を振りほどき、潤は岩のそばではしゃぎまわった。
「標高差1000m。よく、頑張ったなー。ここが金峰山の頂上で2595mだ」
「うん。有難う。あたし、頑張ったよね」
「あー」
潤は遠くに霞む富士山を見ながらうっすらと涙を流している。
「車で行った入笠もよかったけど、こっちはもっといい。我慢して登った甲斐あったよ」
手の甲で涙を拭う潤に、いつしか春樹ももらい泣きしていた。
そんな彼は早速バーナーに鍋をかけた。
「いい匂い。何かなー」
春樹が蓋を取ると、煮込みが煮えていた。
「家で冷凍しといたの温めただけだけどな。食べようぜ」
このところ母親の由乃が家を留守にすることが多く、春樹はたまに自炊することもあった。外食が続くとさすがに飽きるからだった。それで、冷え込んできた季節には晩酌にもってこいの、鍋物や煮込み料理をつくったりしていた。
「へー。料理するんだ?」
「あー。こないだはイカをさばいて大根と煮たし」
「凄いじゃん」
「なんか、最近、お袋が弁当もつくってくれないし」
「お母さんも年で疲れてるんだよ」
「だろうな。でも、いっちょ前にブログなんかやってるらしい」
「へー。今度会ってみたいな」
この夜は山小屋いる2人だが、11月の連休前なので無人だった。
潤は生身の春樹を迎え入れた。
それは生まれて初めてのことで肉体的な刺激もさることながら、苦労しながら山に登りきった同じ体験を共にすることができたという感慨も手伝い、彼女はしけった重い布団の中で何度もほとばしりを受けた。
外は煌々ときらめく星が手でつかめそうなぐらい近くにあった。その冷気の中、潤は寝入った春樹をおいてひとり入っていった。 





