「日光見ずして結構というなかれ」とはよくいわれる。
徳川家康が築いた豪華絢爛な東照宮。
いろは坂を登れば中禅寺湖に戦場ヶ原。さらに登れば湯元で、ハイカーやスキー客などで四季を問わず人が訪れている。
私がそんな日光に初めて行ったのは、小学校6年のときの林間学校でした。
湯の湖畔から光徳牧場に切込、刈込湖を経由して周遊するハイキングはかなりの歩きでがあり辛かったんですが、顧みればこれが私を山へ誘うきっかけをつくってくれたと思っています。それだけ、この日光では山や高原に魅せられました。
高校1年の冬休みにはその湯元の、或るロッジでアルバイトをしたことがあります。
このバイトはスキー場のリフトでロッジの食堂へ行き、そこでの調理と販売です。
朝の8時頃セッチャンというお姉さんのような人と仕込みにかかるのですが、前日の残ったカレーなどは間違いなく凍っていました。
時には生卵やコーラビンが割れていることも珍しくなかった。
私がこれまで利用した山小屋よりもお粗末な建物だから、無理もないことでしょう。
夕方には再びリフトで本館のロッジに戻るんですが、ある日は吹雪かれ、ずん胴鍋を抱えたまま立ち往生したことがありました。氷点下15度ぐらいの気温だったんじゃないでしょうかね(・・,)
そんな寒さにもめげず、コックに意地悪されたこともありますが、セッチャンや支配人をはじめとした優しい人たちに励まされ、なんとかバイトを務めましたよ。
そして級友を誘い再びそのロッジへ行きました。
今回は既に他のアルバイトの人がいて、無給だけどただで寝て泊まらせてくれるというボランティアでした。
林間学校で山の魅力にとり憑かれ、高校2年になっていた私は、奥多摩や丹沢に富士山にも登っていました。
そんなことで小学生のときに周遊したコースを、泊まりにきてた児童達のために先導しました。
子供達からは先生と呼ばれ、友人と、俺達が先生か?などとおどけながら楽しみましたよ。
その彼と金精峠と菅沼へハイキングしました。
意地悪だったコックさんが弁当を作ってくれ、このときに人の機微というものが初めて分かったような気がしたものです。
それから日光へは仕事仲間と1度行きましたが、それ以来日光だけでなく山からも遠ざかってしまいました。
それから幾星霜。
三つ子の魂百までの例えの如く、山が恋しくなって登ったのが奥秩父の瑞牆山でした。
6月でかなり蒸し暑いとき、女子高生達に励まされながら登ったのが懐かしく思い出されます。
これならまだ行けるとなり、山岳写真のサークルにも所属して毎月1回はどこかに登ってました。
そして行ったのが、日光白根山でした。
菅沼キャンプ場から弥陀が池に山頂を越え、五色沼を経由するピストンコースですが、このときはちょっとばてましたね。
それでも随所から見える燧ケ岳の雄姿や、上越国境に男体山などに励まされて登りきりましたよ。
白根山周辺の地図はこちらをクリックして下さい
もうそんな山からも三度遠ざかって8年ぐらいになるのか・・・
今年こそ、瑞牆山からまた登り始めてみようかなどと考えているんですけどね・・・
ポジフィルムをスキャンした物を掲載していますが、露出がいまいちでろくな画像でないのが残念です。悪しからずご了承ください。
とくに道東が好きで、網走から知床半島の五胡をまわったり、根室や釧路に旭川をぐるっとまわったりしてました。
石川啄木が好きで、釧路の幣舞橋とかの写真を撮ったはずなのにどこへいったのか見当たりません。
整理整頓がいい加減なうえ、フィルムからスキャンしてもモアレがひどくて掲載できなかったりとか、こちらにもそれなりの事情があるんですが・・・
下の画像はそういったなかから何とかレタッチしたものです。
撮影地はオンネトーからです。
この近くは松山千春の実家があり、ラワンブキが密生してます。
このラワンブキの葉は大きく、直径1mちかいものもありまして、雨を凌ぐにはもってこいでした。
また、キタキツネをあっちこっちで見ることができましたよ。
でも、熊が出そうなので、肝心な山には登らずじまいでした。
なにしろ秋で、熊が冬眠に入る準備のために餌を漁る時期でしたからね。
知床五湖なんかも人っ子一人いなくて、かなり恐い思いをしながら歩いたのを覚えています。
都会暮らしをしてると、そんな大自然に憧れが強くなり、また機会があれば行ってみたいものです。






